教育用GM管開発を振り返って(3)

クリアケースGM管の標準化


高校授業でのGM管の組み立てを実践して、この作業自体は生徒の評判も良く、それなりの手ごたえが感じられるが、課題がいくつか見つかった。一つ目は完成までに時間がかかること、二つ目は個別指導に手間がかかるので講師のほかに助手を多く必要とすること、三つめは生徒間でGM管の出来栄えに差が出やすいので、不満材料になること、四つ目は生徒全員分のパーツを事前に用意しなければならないこと、である。高校レベルでは、本来、定性的な放射線の検出ではなく、定量的な計数実験が重要となる。そこで、授業においては、時間の制約も考えて、GM管工作は止めて計数実験ができるような改良が必要と考えた。つまり、まずはGM管の既製品化である。


改良点は、GM管側から出るアノードとカソードの接続端子を、2mmのビス・ナットとして簡素化かつコストダウンしたこと、それに伴って、アノードの支持は、中央のビスの頭に虫ピンを約半分に切ってはんだ付けし、カソードのアルミテープは、容器内壁に貼り付けて、その根元でビスを貫通させる構造としたこと、アノードの構成を変更して、線径0.23mmのステンレス線を二つ折りした後に、指だけでよじって先端部に直径2mm程度のフープを作り、根元から2cm長さに切ったビニール被覆に通して、根元の5mm程度を折り返して、その上に熱収縮チューブを被せて絶縁したこと、の3点である。指だけでよじるのはステンレス鋼が硬くてフープを直径2mmまで小さくするのは大変だが、工具を使うとアノード線に傷をつけるので使ってはいけない。この結果、クリアケースGM管の特徴の一つである構成要素の自由な選択を残しつつ、外部的な構造は標準化することができた上に、アノードの長さとか線径、線長、あるいは形状、カソードの材質などをパラメータとした実験が可能になった。


併せて高電圧電源の改良を行った。これまでは駆動電圧6Vで、5000V強の電圧を固定的に出力できていたが、やや電圧が不足している印象を受けたうえ、電圧が可変でないと、特性がまちまちのGM管に対応できないケースが多く発生する。そこで、駆動電圧を9Vに上げ、さらに駆動電圧を可変とすることで、出力電圧を最低2000V程度から最高6000V程度まで広範に変化させることができた結果、クリアケースGM管のいろいろな特性を調べることができた。それらの結果は前述の放射線教育支援サイト「らでぃ」の、ホーム>教材>実験集に詳しい。具体的には、黒画用紙が金属カソードと遜色ないこと、管全長のアノードより二つ折りアノードの方が高性能なこと、黒画用紙カソードはγ線の検出率が低いこと、ブタン濃度の許容幅がある程大きいこと、などである。なお、これらクリアケースGM管基本型の自作方法についても詳しく図解入りで実験集に掲載している。自作に関心ある方々には一読をお勧めする。


計数の工夫


前述のパラメータ・サーベイでは、計測回路には秋月電子製のキットを参考にしつつ、入力段にオペアンプを入れてバッファーとディスクリミネーター機能を持たせた。計数は、液晶ディスプレイに表示して、ロジックICでパルス音と表示用LEDの動作をはっきりさせる目的の保持時間約1msecを作った。外部出力はシリアル出力でRS232Cに準拠した。パソコン側では、Visual Basic 6でプログラムを作り、計数のログを取れるようにした。この計数装置を標準化すれば授業でも使えるのだが、自作で測定器の数をそろえるのは難しい。


そこで、まず、パソコンやタブレットを計数装置として利用することを考えた。GM管からの電圧パルスを音声信号と捉えて、マイク入力端子からパソコンに取り込んで、プログラムで処理することとした。実は、このアイディアは既にあって、アプリとして公開されていたが、必ずしも教育目的ではないので、そのまま使うわけにはいかない。やはり。カスタマイズの必要があった。


最初はプログラムを開発して、学校側のパソコンなり、タブレットなりにインストールしてもらうことも考えたが、学校サイドではプログラムのインストールは制限されていて、無理があった。そこで、タブレットを用意して、アプリをインストールしておいて、それを貸し出すという方法に切り替えた。この方法ならば、プログラムが問題になることもない。


早速、秋葉原で格安タブレットを購入したが、これが見事に安物で、タッチパネルがまともに動作しない。とくに四隅がダメなので、結局、マウスで操作する羽目になった。このアプリは公開していないが、結構優れもので、パルス波形がオシロスコープ的に掲示表示され、それを見ながら印加電圧やデイスクリミネーションのレベルを調整できる。Visual Basic 6のプログラムなので、コマンドボタンで計数動作を選択できるようにした。これまでに授業実践の経験から、計数は1秒率と10秒率をメインとして、30秒率も選択できるようにした。高校理科の計数実験であれば、10秒率を6回繰り返せば十分信頼できるデータが取れる。このアプリはログが取れるようにしたので、必要があればCSVファイルを取り出して、Excelなどのパソコンソフトで詳細なデータ処理もできる。本来ならば、そこまで授業でやりたいが、授業時間の制約は何ともし難い。


次の写真は、タブレットによる計数を高校で実践した際の、装置のレイアウトである。発泡スチロールの板に穴を開けて位置決めをし、さらに距離の実験が進めやすいように、距離が両対数グラフでほぼ等間隔になる位置に線源を置けるスリットを刻んである。タブレットの位置は高電圧電源の干渉を受けないように離れた位置とした。

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学校の授業での問題点と解決法


パソコンを使う計数方式は、今後のICT教育の普及に即した方法ともいえる。データを取りながら、データ処理ができるので、様々な課題を提供できる。さりながら、現在の、Visual Basic 6のプログラムを使うのが良いかどうかは判断が分かれる。そこで、プログラム学習の要素も持ち、実際にデータ取得やデータ表示が可能な言語として、Pythonを使用したプログラムのひな型を用意した。


Pythonならば、すでに学校でも使われ始めており、オープンソースで使用できるライブラリーも充実している。参考例も多く公開されており、プログラム作成に役立つ。「らでぃ」の実験集にはそのひな型を掲載した。


貸出機器の場合、学校の出前授業が中心なるが、理科室が使えない場合もある。その場合は、電源の確保が大いに課題で、少ないコンセントからたこ足配線でテーブルタップをつなぐ必要がある。班ごとにテーブルタップを用意するのは、結構大変で手間もかかる。高電圧電源は、最初は9Vの電池を使用していたが、電池の消耗がかなり早くて、計数の維持が難しいことが分かった。そこで9VのACアダプターを使用して比較的安定な印加電圧を出力することができたが、その後は12Vの電池パックを用意して、電池駆動とすることにした。12Vとしたのは、電池の電圧が徐々に低下しても、高電圧電源の安定化回路で9Vが維持できるマージンが大きいためである。


密閉型GM管の導入


クリアケースGM管の利点として、蓋を被せる方式なので、内部の構造や構成、あるいはラドンなどを線源として使用し、α線の検出器としても使えることを挙げたが、逆に言えばガスの漏れは防げない。実際は、数時間の使用中は大きな変動はないが、翌日はもう無理であった。そこで、密閉型のGM管を作ることにした。クリアケースの場合は、たまたま適当な容器として利用できたが、同程度のサイズで厚肉の容器はなかなか見付からなかった。いろいろ考えた末に、容器の胴と天板を別々に作って接着し、端窓は薄いプラスチック・フィルムを胴に貼り付ける方法を考案した。


胴は円筒の材料でよいが、接着を確実にするには、ある程度の厚みが必要となる。また、このような既製品はないので、胴を切断で作るとすれば、加工しやすい材料が望ましい。結局、胴は塩ビパイプとした。簡単に切れて、しかも安い。天板も円板の既製品は高いので、作ろうと思ったが、アクリル板では硬くて切れない。そこで、ABS樹脂で厚さ2mmの板を見つけて、使うことにした。透明である必要はないので、黒い板を使った。ハサミで円板を切り出し、端部をサンドペーパーで仕上げた。胴の方はやや難しい。端部を垂直に仕上げる必要があるので、まず治具を作り、目の細かいノコギリで接岸した後、端面が平滑になるまでサンドペーパーで仕上げた。これは漏れのない接着に欠かせない作業である。端窓は、薄い方が良いが、丈夫さも考慮して、厚さ0.1mmのOHPシートやパウチシートを利用した。接着剤の選定も難しいが、塩ビやPETでも接着できる万能接着剤があるので利用した。接着と言いながら、実際は貼り付けているだけのような感じがするが、それでも密閉には十分に機能する。天板には、ノズルを設けてガスの注入ができ、かつ、密閉にはノズルに密着性のキャップを被せて封止することにした。ノズルは細いので、ガスの注入には細目の針のシリンジを使用する。アノードとカソード、接続方法については、クリアケースGM管と同様にした。ただし、ノズルがあるために、高電圧電源とのドッキングには方向性ができたが、アノードとカソードを取り違えて差し込まないようにするためには役に立った。この密閉型GM管の作り方も、放射線教育支援サイト「らでぃ」の実験集に掲載した。10数個製作した密閉型GM管のうち半数程度は3年以上も性能を維持している。


7セグメントLED表示による計測機能のビルトイン


計測機能をパソコンやタブレットで実現する方法は、例えば自作の場合は有効な手段になる。比較的簡単な高電圧電源さえ自作できれば、計測回路を自作する必要はない。Pythonでパソコンにプログラムを導入するのは簡単で、「らでぃ」実験集にひな型のプログラムは載せてある。しかし、学校での授業で使用するには、計数表示ができる計測器が望ましいと考えた。実はこれまでも既に開発した液晶表示による計数回路の利用を考えたが、計測部分を別のユニットにするのは、接続などの手間が問題になる。できれば、高電圧電源の中に計数化路が組み込めないかと考えてはいた。問題は、入手できる2行8桁の液晶表示器は、残念ながら使用しているプラスチックケースには収まらない。2行8桁でなく、1行4桁とかなら入るが、これは小さすぎて表示が読みにくい。


そこで、同じ4桁で良いなら、7セグメントLED表示ではどうかと考えた。これならば、明るくはっきりと数値が読める。多少、駆動回路が複雑になるが、高電圧電源の中には組み込める。この方針で、統合型の教育用放射線測定器が出来上がった。当然、計測器といっても、教材なので性能はまちまちだが、ある程度の再現性と安定性は担保できた。理科の計数実験において、信頼できるデータを得るには十分である。ただし、7セグメントLED表示における計数値は、1秒率と10秒率を切り替えるだけのプログラムとなっている。それに合わせて、授業用に、遮へい厚さ・材質の実験、距離の実験、半減期の実験、統計的変動の実験のワークシートを用意した。統計的変動の実験以外は10秒率を6回測定するのを基本としている。装置は1秒率で起動し、プッシュボタンを押すと10秒率に切り替わり、1秒毎のカウントダウンを表示してから10秒率を表示して保持する。再度プッシュボタンを押せば、次の10秒率の測定ができる。


いちいち表示を読み取る作業が必要で、ログは手書きになる。面倒と思うが、実は、授業には適している一面もあった。パソコンにデータを取り込んでおければ、表示を読む手間が省けると考えるが、実は何も作業しないという欠点がある。実験をした実感が得られないという訳である。実際、授業実践では、1秒率で統計変動の計数を100点採取するという課題を出したら、わき目も降らずに実験に没頭していた。つまり、手作業はある程度不可欠という結論になった。遮へいの実験では遮へい体の追加や交換が作業となり、距離の実験では位置の移動が作業となる。ただし、これもやろうと思えば一人でできてしまう作業なので、役割分担を考えないと遊ぶ生徒ができてしまう。指導では、セッティング係、読み取り係、記録係などと役割分担することで、実験の効率化を図りつつ、1班4人での実験に合うように工夫している。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)

余談:海外出張

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始めたばかりで脱線するのも恐縮だが、リクエストがあったので、40年以上も前の海外出張の失敗談というか、珍体験というか、印象に残ったできごとについて触れてみたい。もう、記憶に定かではなく、記憶違いもあるかもしれないが、できるかぎり思い出そうと思っている。


海外出張にまつわる因縁


今のように海外旅行が一般的でなかった時代。会社は研修を兼ねて、機会を設けて海外出張を命ずるのが普通で、多くの社員はそれが初めての海外旅行だった。大体、入社後の年数に応じて、幹部候補生を順番に送り出す習慣だった。


順番が回ってくるタイミングで父が病床にあったことから、何回か断っていた。声がかかれば喜んで応ずるのが普通なので、上司からは小言を言われたりした。昇進に響くよって。


実は断っていたのには、他の理由があった。それは、初めて飛行機に乗ったのが新婚旅行で、帰路、離陸して眼下に海が見えた後、雲の中を上昇するが、機体がガタガタ揺れてなかなか雲の上に出ない。大丈夫かなと思いつつ、しばらくするとアナウンスがあり、エンジン不調で出発地に戻ります、と告げられた。不安はますます募り、眼下に海が見えだした頃は、その極致に達していた。結局、無事着陸できてホッとしたが、その続きがあった。株主優待券で搭乗していたので、別会社の便に乗れず、長く空港に二人だけ残されて、待つことになった次第。出発地に戻った時には、荷物のターンテーブルには我々のスーツケースだけがカラカラと回っていた。この一件があって、すっかり飛行機恐怖症になってしまった。


最初の海外出張でのできごと


最初の海外出張は業務命令で拒否のできないものだった。当時はあるプロジェクトの主担当で、海外視察が命じられ、2人の関係者とともに海外出張した。実は、3人とも同じメーカーの社員で業務でも頻繁に付き合いがあったが、3人とも海外出張は初めての経験だった。幸いなことに、別の業務で出張する部長級が同行してくれた。英語がペラペラの方で、心強かった。


出張の時期は、ちょうどゴールデンウィーク。当時は毎年、春闘があって、交通ゼネスト、つまり当時の国鉄以下、私鉄も歩調を合わせてストライキを実施していた。したがって、空港まではタクシーに頼らざるを得なかったが、当時は交通渋滞が日常の時代。よく渋滞で搭乗に間に合わなかったという新聞記事を見かけていた。早めにタクシーで空港に向かい、無事に全員と落ち合うことができた。


出張先はアメリカだったが、当時はアラスカのアンカレッジ経由で、給油の間、空港内に留め置かれた。まだビザがある時代だったが、とくに問題もなくシアトルに到着し、無事入国できた。ところが、定時運行が稀だった時代で、遅延のために予定していた国内便に乗り遅れてしまった。早朝に到着したのに、次の便は午後。長々と空港内に止まることになったが、国内線への乗り継ぎができなかった代わりに空港内でいろいろな体験ができた。


最初に驚いたのは、滑走路から空港ビルに移動するときのこと。地下に降りて、エレベーターのような乗り物に乗った。記憶では、大型のケーブルカーくらいの大きさだったと思う。それが上ではなく、横に移動を始め、移動が終わると自動的に扉が開く、まさに横に動くエレベーターだった。これが最初のびっくり。


次のびっくりは、聞いてはいたがトイレが有料だったこと。小銭がないと入れない。まず、小銭を作ろうと、朝食を取ることにしたが、早朝なのでレストランは開いていない。機内でガッツリ飲み食いしていたのであまりお腹がすいていないこともあって、今で言うファストフード店アメリカ風に豆料理を食べた。その後、デザートと思ってアイスクリーム店にいったところ、スタンダードが2ディップ、3ディップもあって、食べる量の違いに驚かされた。


次のびっくりは、次の国内線のフライトのこと。聞いてはいたが小型機で16人乗り。周り中がよく見えて、いかにも飛行機に乗ったという感じがした。国際線では窓の外は見えなったから。しかも、パイロットは女性。さすがに珍しく感じた。レーニエ山を見ながらカナディアンロッキーを超えて最初の目的地のリッチランドについた。名前とは裏腹に、鄙びたローカル空港で、空港ビルなどなく、日本の鉄道の田舎駅よりも小さい建物があるだけだった。移動手段は車だけだが、手配していた迎えもなかなか到着しなかった。後で聞くと、予定が変わったので、時間の調整が難しかったらしい。


次のびっくりというよりは失敗談は、午後に着いたので、ホテルでコロンビア川を眺めながら夕食を取り、日が暮れていくのを眺めていたら、川を自動車のような乗り物が渡っている。水陸乗用車だが珍しかった。同僚が、「川」と言ったら、誰かが ”Yes, it’s a car!”と言ったが、一瞬理解できず、そうかそう聞こえたのかと分かって、一同納得した。失敗談は、翌朝のこと。眠気に負けて寝入ったが、朝になって電話で起こされた。朝食会が設定されていたが、3人とも寝坊して、1時間も遅れてしまった。実は、着いたのがアメリカのサマータイムへの移行日で、時差ボケに加えて夜の時間が短くなっていたのが原因と、タイミングの悪さを嘆いた次第。


次のびっくりは、研究所の訪問で入門手続きをするが、女性警備員が大きな拳銃を腰にぶら下げていたこと。日本の警察官が携帯している拳銃より倍以上大きかった。女性警備員も日本ではなかなか見られない時代でカルチャーショックを受けた。


その後は、ソルトレイクシティを経由して、アイダホフォールズへ。ソルトレイクの白さと、アイダホの乾燥地に見えた人口灌漑の丸い緑の農場の群れは新鮮な体験だった。さらに、シカゴを経て、ロサンゼルスに着いた。夕方、メキシコ料理を食いに行こうとなって、バスに乗ったが紙幣しかない。運転手に釣りはないと言われて紙幣を取られ、小銭がなくて損をした。当時のロサンゼルスの夕方はどの店も閉まっていて、ショーウインドウには何もない。物騒な街という印象を受けた。夕食といっても屋台でタコスを食べただけ。


翌日はサンタモニカに移動して、視察。こちらで夕食会を用意してあって、先方と夕食を共にした。場所は、ビクトリアステーションというレストラン。プライムリブステーキを注文するのに、何ポンドにするかと問われて、半ポンドを注文したが、さすがに辟易した。向こうの食事の量にはついて行けない。ついでに言えば、帰国後は、一種のアメリカかぶれになって、当時、南船橋ららぽーとにあった、ビクトリアステーションに行っては、プライムリブを注文した。


ロサンゼルスに戻って、さあ、帰国となったが、ゴールデンウィークで、帰りのフライトはオープンだった。便の確保に数日かかるかもしれない、と言われながら待つこと暫し。幸い、予定の期日で帰国することができたが、過食が祟って体重が4kgも増えてしまい、産業医から減量を命じられる始末。でも、この機会にダイエットに取り組み、当時は高かった0.2kg単位のデジタル体重計をわざわざ買って、一日の体重変化を調べたうえで、朝の体重を測って記録した。外食でも、ご飯は最初に半分にして残すようにし、香川式のカロリー計算を取り入れて、ダイエットには成功した。以来、そのときの体重計のまま、朝の体重測定は欠かしていない。


二度目の海外出張では


二度目は一人旅だった。イギリスの研究所に委託研究を出していた関係で、仲介する商社マンが一人、イギリスの用件だけに同行してくれた。3月だったが、交通渋滞はひどく、余裕を見て搭乗の6時間前に空港に着くようにタクシーで向かった。空港に着くと商社マンはもう着いていて、一緒に時間をつぶした。会社の規定で最初の海外出張はビジネスクラスで行ける。幸い早くチェックインしたために、ファーストクラスの席で搭乗できた。


今度はシベリア経由で、バイカル湖を眼下に見ながら、アムステルダム経由でロンドンに着いた。ロンドンはピカデリーサーカス近くにホテルを取った。朝着いたので、この日は市内見学。近くなので、トラファルガー広場、バッキンガム宮殿、ウエストミンスター寺院、ビッグベンは見た。夕食は商社の招待で北京料理


翌朝は、箱型のタクシーで、確か、パディントン駅に向かった。驚いたのは、人々が信号を無視したり、横断歩道以外で勝手に道路を横切ったりすること、まさに、自己責任なのだそうだ。駅から、列車に乗ったが指定席のはずが車両が分からない。車掌に聞くと指定車両はなく、空いている席を指定席にしているらしい。とにかく、指定されている席に座った。3月のどんよりした空の元、研究所のあるレディングに向かった。駅について下車しようとしたが、昔の客車のようなオープンのデッキで、扉は自動的には開かない。困ったのは、内側にノブのないことだった。扉の開け方が分からないうちに発車時刻が迫って焦ったが、駅員に声をかけると外から扉のノブを回してくれた。要するに、安全上の理由で中からは開けにくいようになっているらしい。しかし、扉は下半分だけで上半分はないので、上から外に手を回せば開けられる。これもカルチャーショック。


委託の進行状況や研究所を見学した後、ロンドンに戻った。


翌日は日曜日、午後にはロンドンを離れてパリに向かう。空いた時間で大英博物館をさっと見て、ハロッズで土産を買った。そこで商社マンと別れて、一人旅が始まった。


一人では時間をつぶす場所もないので、早々と空港に着いた。これが、実は早すぎた。チェックインして、空港内で時間をつぶし、飛行機に搭乗してパリに着いた。ところが、何時まで経ってもスーツケースが出てこない。最後の1個が終わって、大変なことになったと気が付いた。夜も遅く、空港スタッフと掛け合ったが、探すので出たら連絡するという。ホテルの連絡先を告げて、仕方なくホテルに向かった。当時はアルジェリア紛争があって、フランス国内でも警戒していた時代。兵士が自動小銃を持ってシェパードと巡回していた。


タクシーの運転手はベトナム人で、若い。ホテルは住所しか分からなかったが、地図を見ながら探してくれて、やっとホテルを見つけてくれた。パリの住所表記はよく分からないが、意外とよくできているらしい。着いたホテルは二流のランクで、ツーリストから帰ったら感想を聞かせてほしいと言われたほど、ツーリストにもなじみのないホテルだった。小さなクロークでチェックインを済ませ、客室に向かったが、エレベーターに乗ると、乗った側でなく向こう側の扉から降りる仕組みで、今頃は珍しくないが初めてでびっくりした。


スーツケースが行方不明なので、手元にあるのは気に入って買ったダレスカバンだけ。一応、仕事が続けられるだけの書類や所持品はあったが、着替えおろか、洗面道具もない。仕方がないので、シャワーを浴びて寝た。翌朝は、朝食付きというので食堂らしきところに行ってみると、大勢の労働者風の人々がいた。座って待つと、ウエイターが来て、カフェオレを左右のポットから上手に注ぐ。感心したが、ほかに出たのはパンだけだった。


この日は休日だったので、店は開いていない。とりあえず開いているドラッグストアを教えてもらって、必要なものは買った。せっかくパリに来たのだから、この際と開き直って、地下鉄に乗り、オペラハウスまで行き、ルーブル美術館まで歩いた。ルーブル美術館は開館直後で、空いていた。2時間ほどかけて回れる展示室は余さず見た。各展示室を一筆書きで回れるのがいい。駆け足もいいところで、モナリザを始め、ビーナス像、サモトラケのニケなど、教科書に載っている美術品を見た。大きな絵画が多い中で、ドガの踊り子がものすごく小さいのには驚いた。


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ルーブルを出た後はノートルダム大聖堂へ。中は暗く、ステンドグラスがきれいだった。鐘楼にも上った。その後は、凱旋門方面に向かい、ガイドブックに載っていたレストランに行ってみると閉店だった。仕方なく、ルーブルまで戻って、その近くにあるラーメン店で夕食を取った。かなり有名なラーメン店だったが、パリまで行ってラーメンとはと、後で嘲笑された。ホテルに戻ってから、スーツケースが見付かっているかもしてないと思って高速鉄道に乗って空港に向かったが、近距離電車なのにファーストクラスがあるのには驚いた。空港に行くと幸いスーツケースは見つかっていて、無事手元に戻った。無事というのは、当時、手荷物を北アフリカに送って、スーツケースをこじ開けて目ぼしいものを盗んでから返すという手口が横行していたので、壊されないで済んだのは幸いだった。どうも、ロンドンでのチェックインが早すぎたので、搭乗便ではなく別便でどこか遠くに行っていたらしい。アルジェリアあたりかな、と今でも疑っている。


訪れた研究所はパリ郊外にあるサクレ―。昼食会があったが、デザートが各種のチーズで、ケーキが出ると思いこんでいたのでがっかりした。


パリの次は、ドイツのフランクフルト・アム・マイン。ケルンに近い。ホテルは木造で、三角屋根。コテッジ風でのどかだった。部屋にトイレはあるが、バスはない。シャワー室が共同で3室。おどおどしながらシャワーを浴びた。研究所を訪問して、午前中は見学と研究紹介。昼食が出て終わりと思ったら、午後も続けるという。実は、ケルン大聖堂には行ってみたいと思っていたので、懇願すると車を手配してくれて大聖堂を見ることができた上に、空港まで送ってくれた。迷惑をかけて誠に申し訳ないと今でも思っている。大聖堂がいまいちの感じだったこともあるかもしれない。


ケルン・ボン空港からは、ミラノへ。途中、国内便から国際便への乗り継ぎがあって、待機中に軽食が出たが、これがジャガイモだった。ミラノでは、研究所の見学の後、食堂に誘われ、昼食を共にしたが、カフェテリア方式で美味だった。案内者が水ではなく大き目の炭酸水をがぶがぶ飲んでいるのには驚いた。研究所ではコーヒーはエスプレッソで、抽出する機械がすごかった。ミラノではミラノの大聖堂を見た。まあ、どれも同じような感じ。


ミラノからは、直行便がないという理由を付けて、ローマに行けるようにしてあった。ローマでは、ホテルにチェックインした後、夕食に出た。探したが適当なイタリアン・レストランがなく、夕食なのでコース料理が食べられる店に入った。驚いたのは、サラダの量。大きなボウルに山盛り。パスタも我々が普通に食べる量が途中で出てくる。ステーキが出て終わったが、ワインもデカンターでハーフボトルくらい出た。若さのせいか、意地だったのか、全部平らげて見せた。


翌日は市内見学。地下鉄で回れるだけ回った。コロッセオ、スペイン広場、テルミニ駅。ジプシーがたむろしていた。


帰路は、ローマからアムステルダム経由で逆回り。飛行機はローマではガラガラで、アルプス山脈が白くきれいに見えた。


これで、お終いだが、閑話休題にしては長すぎたかな。まあ、40年以上前はこんな旅だったということで、「へー」と思ってください。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)


id:TJOによる追記)

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(当時のガイドブックから転載)

パリで入ったラーメン屋は「らーめん亭」の跡に居抜きか何かで入った「ひぐま」*1だった模様です(当人の記憶でも「角にある店だった」とのことで合致します)。現在は既に閉店していて、ラーメン屋ではない別のお店が入っています。ストリートビューから見られます。

*1:こちらのブログ記事によれば1983年当時にパリのラーメン屋の勢力変化があったらしく、当人も「らーめん亭」という名前ではなかったと記憶しています

教育用GM管開発を振り返って(2)

「教育用GM管開発を振り返って(1)」は、いわば「事始め」であったが、この後は、開発の苦労談や失敗談、狙いのポイントやふっと浮かんだアイディアなど、教育用のGM管開発を振り返る、技術的に役立つと思われる話になる。GM管の自作や放射線教育に関心のある方にはご一読いただきたい。


クリアケースGM管を学校用に


GM管の構造とパーツの仕様がほぼ固まったことから、高校理科実験の授業で実践することにした。カソードは黒画用紙、アノードは伝統的なビニール被覆線の銅の単線、ブタン濃度は10%と決めた。


高圧電源は、冷陰極放電管用の高電圧発生ユニットのジャンクで、駆動電圧6Vでは約1000Vを出力し、6段の倍電圧整流で約5000V強を得ることができた。ただし、1000V程度が得られる高電圧発ユニットもいろいろ入手可能だが、どれでも同様に使えるわけではない。GM管は、生徒がパーツを自ら組み立てることで、GM管の構成要素や動作原理についても興味を持ってもらうことを意識した。さらに、自作できるほど簡単なもので放射線が検出できることに、驚きをもってもらえたら、という狙いもあった。自作できるということで、やってみたいという気になってもらえれば、この世界が広がるのでは、という期待もあった。高校なら、授業ではできなくても、部活動とか、自由研究の課題にはなる。高専、大学レベルなら、学生実験のネタにはなるだろう。


授業では時間の制約が大きいので、できるだけ工作に要する時間は短くしたい。ということで、パーツは事前に用意した。アノードは、短いビニール被覆線をベースにして、銅の単線を二つ折りにして先端をよじって丸くまとめ、ベースにはんだ付けする。これを、クリアケースの底に画鋲を刺して、アノードのベースを画鋲に差し込めば直立できるという、よいアイディアが生まれた。組み立てた後に、アノードの先端が露出するように、短いストローを被せて先端放電を担保する。カソードは、矩形の黒画用紙の外側に、裏糊付きのアルミテープを張り付けて導線とする。この段階では、アノードの画鋲とアルミテープに別途用意したビニール被覆線をセロテープで張り付けるという、やや野蛮で、危険ともいえる方法だった。


高電圧電源は各班に1台、クリアケースGM管は生徒一人に1個と決め、高電圧電源から出る、+と-の2本のケーブルを各4本に分岐して各班に用意した。GM管製作の仕上げはブタンの注入で、シリンジを用意して定量を注入できるようにしたが、生徒にとって初めての経験なのでなかなかうまく行かず、個別指導に時間が取られた。


放射線の検出は、カソードのアルミテープと高圧電源の-側の間に、100kΩの抵抗を並列にいれたクリスタルイヤホンで放射線の検出音を聞く方式とした。100kΩの抵抗は、放射線による電離の電荷を電圧に変える役割を持っている。これも伝統的な方法で、感度が高い特徴がある。実は、高電圧電源は40kHzの発振をしているので、オシロスコープなどでは放射線パルスと重なってしまうが、40kHzは可視聴域外なので人間には聞こえない。放射線パルスの音だけが聞こえるといううまい方法だった。この段階では、放射線の計数ではなく、感覚的に存在が確認できることと、線源の違い、距離や遮へいといった基本的な特性を理解してもらうことに主眼を置いた。これならば、低学年を対象として、科学の祭典などのイベントや、各地の科学館でのイベントでも使えるのではと考えていた。なお、この授業では、ランタン・マントルから抽出したラドン半減期の演示も行っている。


科学の祭典に向けた改良


高校理科授業での実践を経験して、科学の祭典のようなイベントで利用できるように改良することを決めた。問題点は、やはり電気ショックで、高電圧が掛かっている部分の露出をどうやって避けるか、だった。そこで、考えついたのが、GM管をプラグイン方式にすることだった。高電圧電源には+と-のピンソケットを用意し、GM管側から端子を出して差し込むようにすれば、高電圧の露出が防げると考えた。結局、この段階では、GM管にもピンソケットを用意して、細い銅の棒で接続するという、やや手間のかかる方法で実行された。この方法の問題点は、GM管工作が複雑になることに加えて、GM管の製作コストが上がってしまうこと、さらに細い銅の棒が、高電圧電源側に残る場合があって、電撃の可能性があることだった。なお、放射線パルスをクリスタルイヤホンで聞くことに変わりはないが、100kΩの抵抗は高電圧電源の方に組み込んで、モノラルプラグで外部出力とし、クリスタルイヤホンだけでなく、アンプ付きスピーカーでも音が聞こえるようにした。クリスタルイヤホンは耳に入れるので、大勢の人が入れ替わり使う場合、衛生面を気にする人がいるかもしれないし、イベント会場はまわりがうるさいのでスピーカーの方がいいのでは、という意見に配慮した。


科学の祭典は、改良したGM管と高電圧電源のテストの場だったが、イベントである以上客が入らないと話しにならない。また、科学の祭典の主な入場者は、中学生や小学校高学年だが、そればかりではない。子供に科学に対する関心を持ってほしい家族連れで、小学校低学年や幼稚園児も少なくない。地味な展示なので、なかなか難しいが、放射線宇宙線と関連付けて話しを広げることにした。宇宙線放射線の一種だし、自然放射線に占める割合も少なくない。宇宙の成り立ちや元素の誕生と宇宙線は切っても切れない。放射線というと、α、β、γ、Xと狭義に捉えがちだが、宇宙線にはあらゆる原子の原子核が含まれている。広義に捉えれば、放射線は実は自然と一体のものであって、特別のものではないとも言える。


放射線と切り出すよりは、宇宙と切り出した方が、受けがいいと思った。そこで、一般的な身近な放射線源に加えて、バックグラウンドを知ってもらうために厚めの塩ビキャップをGM管に被せることで、遮へい効果を体験するのとは別に、線源のない状態であるバックグラウンドがあることと、そのわずかなカウントがそこに常時ある自然放射線を示していることを体験してもらった。実際のところ、自然放射線に対する宇宙線の割合は約4割で、決して少なくない。しかも、使用した大気圧GM管はγ線の感度が極めて低いので、バックグラウンドの大部分は宇宙線といっても間違いではない。このイベントでは、改良したGM管が幼稚園児でも扱えることが分かったのが、最大の収穫だったかもしれない。


教員と教育学部学生の体験用GM


自作することを主眼とする教員と学生に向けた講習会があった。そこで、プラグイン式ではなく、高校の授業で使用したタイプをアレンジして提供した。変えたのはアノードで、出来上がったピースではなく、銅線を二つ折りにしてよじる工作から始めてもらった。高校授業のように、アノードのベースに銅線を予めはんだ付けしておくことができないので、ビニール被覆線の被覆だけを取り出しておいて、よじった銅線をその中を通し、端部を折り返してから短いビニールチューブを被せることにした。アノードの電極となる画鋲に刺して、使用するが、高校授業とは変えて予めリード線を画鋲にはんだ付けし、カソードの電極となるアルミテープの方はミノムシクリップで止めることにした。ただ、電気ショックを防止するため、アノードとカソードのリード線は、高電圧電源のピンプラグに差し込めるように、簡単なプラグを用意した。参加者の評判はまずまずだったと聞いている。


実は、このタイプのアノードは、別の講習会でも使用してみた。高電圧電源の改良があるので、電気ショックの可能性はなくなっている。しかし、結果は必ずしも良いものではなかった。その原因は、アノードの製作過程で銅の単線を二つ折りしてよじるが、銅線を指でよじる際に酸化したり、汚れたりすることが原因と考えられた。その結果、放射線による電離後に放電が誘導されずに、検出ができなかったり、抵抗の増加で検出音が小さくなったりしたようだ。それまでは、銅の単線の方が曲げやすく工作をしやすいし、なにしろ入手は楽だし、これまでの伝統的なアノード線材なので、疑いもなく利用してきた。しかし、薄々、これまでもGM管が安定して動作しない、とくに動作できた翌日にはもはや動作しないという現象は経験していた。当時は原因不明だったが、考えてみれば、銅線が酸化したことがその原因だった可能性が高い。この一件以来、銅線は止めて、酸化しにくいステンレス鋼の細線を線材に使用することにした。細いステンレス鋼線は一般的ではないが、線径0.23mmならば探せばホームセンターなどで入手できる。現在はこの線径0.23mmを使用している。この線径は銅の単線よりは太いが、前に述べたような理由で、先端フープによって線材を細くする効果が薄れているために、印加電圧の条件が不利にはなっていない。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)

教育用GM管開発を振り返って(1)

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自作GM管への興味


株式会社東芝に長くいたが、最後の10年ほど(2004年3月まで)は原子力広報担当部長という肩書で、昔のいわゆる「原子力PA」を担当していた。PAはPablic Acceptance の略語で、原子力発電所の見学会や原子力発電や放射線知識普及のための活動に従事した。


放射線知識普及は、まだ、世間の放射線に対する関心が極めて薄い状況で、放射線が身近にも存在することを測定器でデモすることだった。この「原子力PA」は電力業界の主導で進められていて、使用する測定器は「βちゃん」というGM計数管とサンプルのセットだった。簡易測定器とはいえ、そこそこ高額で、GM管だけでも8万円ほどした。定型的な使用体験と放射線に関する諸々の解説で進めていたが、それに飽き足らず、当時、秋月電子でキットとして市販していたGM計数管の自作に取り組み、その出力を利用してストロボランプの発光とパトカーの音源を刺激として、「これは宇宙線です」というデモを実践した。面白くもない、興味も薄い説明では誰もが眠くなる。その対策だった。これは結構受けた。


当然、電子工作や電子回路の知識と経験が必要で、元々の工作好きと中学時代は古い真空管ラジオを解体して組み立て直したりした経験が役に立ったと思う。それは、経理屋の父が子に望んだのか、半田ごてを買って鉱石ラジオを作らされたりしたのがエンジニアへの誘いだったのかもしれない。ただ、その後、トランジスタの時代になって、電流増幅という原理が理解できずに興味を無くして、すっかり忘れていた。秋月電子のキットが覚醒させてくれたのかもしれない。ただし、このキットは2000年頃にはGM管の製造が中止されたことで、販売が終わっていたらしい。その意味ではぎりぎり間に合ったということだった。


手作りGM管への興味


東芝(56歳以降はアイテル技術サービス)を60歳で退職後、縁があって当時の原子力文化振興財団(現在は原子力文化財団、以下、原文振)が科学技術庁(後は文部科学省)の委託を受けて運用していた未来科学技術情報館(以下、情報館。ただし、お台場の未来科学技術館が開館するまでは未来館と言っていた)という、新宿三井ビルにあった小さな科学館に技術相談員という肩書で再就職した。この情報館は、本来は東京において国の原子力行政の資料を閲覧できる施設としての位置づけで、実際、設置認可申請書類などが閲覧できたが、多分、集客のために科学館の体裁をとったのではないか、と思う。


ここでは、実験教室や、「ちょこっとサイエンス」という15分ほどのサイエンスショーの企画と実施(講師)を担当した。予算は少額だがかなり自由にやらせてもらった。また、新規の展示品の選定や仕様の提案なども受け持った。狭い館内だが、新宿駅に近く、買い物がてらによる親子もいて結構賑わっていた。一つの小道具が手作りの体験型小展示物で、風力発電模型とか、空中ゴマとか、ハノイの塔といった定番の小道具があって、大人も暇つぶしに利用していた。


いくつかの小展示物の製作も手掛けたが、その中に、「βちゃん」を常時展示するという企てをした。通常は、監視下の下で使ってもらうことはできるが、人が付いていないと盗まれたり、壊されたりする心配がある。「βちゃん」の基本的な使い方は、セットに付属している身近な放射線を出す物質として、湯の華、塩化カリウム花崗岩などを測って比べ、それらを鉄板で遮へいすれば計数が減ることを体験するものであった。まず、工夫したのはGM管を壊されないようにすること。GM管の端部は薄い雲母の膜なので、鉛筆ででもつつけば簡単に割れる。そこで、OHPシートをその前面に貼って簡単には割られないようにした。OHPシートの厚さ分は遮へい効果があるが、厳密な測定ではないので、良しとした。次に、「βちゃん」を手にもって操作するのが標準的だが、落とされると困るので、板に固定することにした。そうすると、線源の比較方法が問題になるが、円板に3個の線源を固定したターンテーブルを作って解決した。実際は、4分割で何もないところを用意している。それは、いわゆるバックグラウンドを図るためである。さらに、「βちゃん」はAC電源に接続して常時計数するようにした。これは、検出音を常時流すことで気に留めてもらうことを狙った策である。情報館とはいえ、目的は原子力利用の推進なので、放射線に興味を持ってもらうことも重要な役目である。入口に近いところにおいて、客引きにも役立ったと自賛している。


ここで、実験教室のテーマとして「手作りGM管」が取り上げられ、三門正吾先生が講師となって、いわゆる「大気圧空気GM管」と、その電源となる「摩擦起電器」の工作と実験が行われた。なかなかうまく行かない実験教室だったが、当時の広井館長から三門先生の論文を紹介されて、手作りGM管で実際に高校理科実験に使用されていることを知った。


元々興味があったことから、まずは論文にある手作りGM管のポンチ絵と計数の回路図を参考に、コピー品を作成することを考えた。手作りGM管は写真のフィルムケースを利用しており、ライターのガスを入れてからラップで蓋をする仕組み。回路図の方は、理解しにくい部分もあったが、代替トランジスタの選定や、ロジックICの動作原理などを勉強しつつ、製作してみたが、結局はうまく動作しなかった。


情報館に再就職したのは、縁あってと書いたが、アイテル技術サービスの時代に原子力広報とは別に、関連する模型などを企画・販売していた。その中で、改良型BWR(ABWR)の中央操作室の制御盤をパネルにして、原子炉の起動から臨界接近、臨界超過などをゲーム感覚でパソコンを使って体験できる大型展示物を情報館に納品していた。実は、原子炉の動作は専門家に任せたが、その他の部分はVisual Basic 6のプログラムを自ら勉強して、作り上げた。外部機器への入出力には、Windows API(Application Programing Interface)という機能を動かすプログラミングが必要になるが、試行錯誤しているうちにずいぶんと詳しくなった。


実は、東芝に入社した直後は、開発中だった重イオン注入装置のイオンの打ち込み深さをモンテカルロ・シミュレーションで解析するのが仕事だった。当時は、プログラムはFortranで作成していたが、プログラミングなるものの訓練にはなったのだろう。


最近はICT教育と称してプログラミング教育が進められているが、実は、パソコン内部で完結するプログラムは簡単だが、入出力を伴うプログラミングはかなり難しい。マニュアルはあるが、実際には実施例をネットで探してパクる方が早い。ただ、似た分野の情報が限られているので探すには苦労した。


福島第一原子力発電所の事故を契機に


2007年12月に情報館が閉館となり、無職となった。その後は、上野の科学博物館、お台場の未来科学技術館千葉市科学館市川市にある千葉県立現代産業科学館などのボランティアを手当たり次第に体験した。結局は、期待していたほどでなく、ボランティア活動に幻滅を感じていた。


2011年3月11日は、まだ、未来科学技術館にボランティアとして随時通勤していたが、たまたま体調が悪くて家にいた。事故後というか、事故の進行中も、原子力の知識があるばかりに不安を感じたり、人から放射線の影響について質問を受けても情報不足で満足に回答できないもどかしさを感じたりしていた。直後から始めた、東海第二発電所と東京都の放射線レベルの確認は毎朝の日課になっている。東京の放射線レベルもほとんど事故前の水準に近付いているが。


事故後、放射線測定器への関心が高まり、怪しげなネット情報が溢れていた。多くは旧ソ連製のGM管を手に入れて、計測回路を自作するケースが多かった。国内では、小型のGM管は製造されておらず、在庫も無かったので苦労したのであろう。


秋月電子GM計数管キットを組み立てた測定器と三門先生の高圧電源のコピーは元に残っていた。そこで、GM管が自作できれば、回路はどうにでもなると考えて、試作を始めたが、手掛かりが全く無かった。当然、いわゆる「大気圧空気GM管」なので、管の口径が小さいほど印加電圧が低くなる。まずは、外径15mm、内径13mmのアルミ管から始めてみた。これがGM管のカソードで、アノードはビニール被覆線の撚り線の細い銅線を取り出して、直線とか、半分の折り返しとか、を試してみた。放射線源は、蛍光灯のグローランプの芯を取り出して使用した。消滅ガスとして、ライターからガスをアルミ管の中に注ぐが、分量が分からない。結局、うまく行かないことが多く、たまにうまく行く程度だった。


nandemo-lab.cocolog-nifty.com

この辺のプロセスは、情報館の閉館を機に始めたブログ、Niftyココログにアップした「科学館員の独り言」が詳しい。2011年の5月から10月にかけて合計20回アップした。今でも残っているので、見ることはできる。


日本科学技術振興財団との縁


翌年の2月ごろ、情報館時代の同僚のつてで、日本科学技術振興財団(以下、北の丸)から照会があった。ブログを見て、誘ってくれたとのこと。当時、北の丸は、文部科学省が大量に購入した「はかるくん」というシンチレーション検出器を教育用に貸し出す業務の委託を受けていた。スタッフも原文振につながる人がいて、覚えてくれていたらしい。


実は、その前に「自作GM計数管」の可能性と概算見積もりにつて、原文振から問い合わせがあったりしたが、難しいと回答していた。まだ、確実に動くGM管が完成していなかったことが大きい。結局は、その後、何年もかけてその課題に取り組むことになったが。


www.radi-edu.jp

その後の、教育用放射線測定器の開発の経過については、時系列的に北の丸で運用している放射線教育支援サイト「らでぃ」のホーム>教材>実験集に、1テーマ2ページ程度でアップされている。


なぜ、GM計数管が開発目標とされたかは、従来の「はかるくん」では主な目的が空間線量を測ることであって、たとえば高校レベルの理科実験には物足りなさがある、ことにあった。主流だった「はかるくん」を使ったカリキュラムはほぼ完成されていたので、学校側では「はかるくん」を借り出せば放射線の授業ができる簡便さがあった。小学生でも理解できる内容である。逆に言えば、「はかるくん」はシンチレーション式検出器でγ線を測定し、空間線量として、μSv/hrで表示する。福島第一の事故後も、もっぱら話題になったのは空間線量なので、一時期の放射線検出器ブームでも、ほぼすべてがこのμSv/hr表示になっていた。本来、GM計数管ではエネルギー分析ができないのに、GM管方式でも無理やりこの表示にしていた。いい加減といえばいい加減であった。しかも、出回った放射線測定器の大部分は簡易測定器なので測定値自体もいいかげんなものであった。無いよりまし、ということだったのだろう。とくにγ線では遮へいの実験はできるが、プラスチック板では減衰がほとんどないので、遮へい体が鉛など重いものになる不便さがあった。また、「はかるくん」の表示は、7点移動平均という数値の変動を見かけの上で小さくする仕様だったので、実計数には6点1分を要した。それでないと、計数値と捉えても正しい値にはならない。


などなどの諸課題があって、GM計数管の方がいいのではないか、ということになったらしい。したがって、業務の主目的はGM計数管方式によるカリキュラムの確立であった。GM計数管は放射線を数える装置で、CPMなどの単位で表示する。つまり、この測定器の使用目的は、そこに放射性物質があるかどうか、どれくらいあるかである。何があるのかは分からない。よく、ガイガーカウンターといって、けたたましく警報音が鳴るところを見せるのが、GM計数管の典型である。GM計数管は主にβ線を計測するが、一般的なGM計数管ではわざわざγ線も図れるように工夫している。検出器を重い金属にしてγ線β線に変換して測定できるようにしているのだ。放射線管理の現場では、その方が便利なのだろう。


一方、教育目的では、できるだけβ線だけを検出して、β線に特化した実験をやりたい。つまり、γ線は邪魔になる。β線だけならば、遮へい実験はプラスチック板でも可能になり、アルミやステンレス鋼、鉛と組み合わせれば、遮へいの厚さ依存性だけでなく、遮へいの密度依存性(正しくは、電子密度依存性)についても学習できる。距離の実験もβ線の空気中での飛程がγ線よりは小さいので、短距離での実験が可能になる。実は、その後の展開で、半減期の測定もできるようになっている。いわゆる「大気圧空気GM管」は、簡単に減圧ができないための方便であるが、高い印加電圧さえ確保できれば、簡単に安価で製作できる特徴があって、自作にはもってこいの特徴がある。「大気圧空気GM管」は使用の都度、ライターガス(ブタンガス、一般的には液化石油ガス)を注入するので、構造はオープンになっている。GM管のいわゆる端窓は解放できるので、荷電粒子であるα線が計測できる。そこで、例えば、ランタン・マントルから抽出したラドンガス(220Rn、トロンとも言われる)を同時に注入すれば、半減期約57秒の計数ができて、半減期の実験もできることが特徴となった。


北の丸の最初の希望は、「βちゃん」のようなオールインワン・タイプのGM計数管だった。すでに、キットや重ねていたようで、それに載った感じだった。したがって、当初はオールインワンを目指したが、当然、市販品よりは安価でなければならず、できるかどうか皆目見当が付かなかった。要求が高いのは当然で、市販のGM管と同程度のものを作れないかということだった。そうなると、まずは市販GM管のコピーから始めないといけない。市販GM管を壊して内部構造をコピーすることを考えた。口径50mmクラスのいわゆるパンケーキ型GM管だが、アノードは平板の三重リングだった。そのコピーを外部に頼んだが、レーザーカッター程度では、表面が粗くて使い物にならない。研磨するとコストが上がる。結局、コピーは断念せざるを得なかった。他にも制約があって、1000V程度の低い印加電圧でGM管を作動させるには、減圧にする必要がある。真空に引いてから定量のガスを入れて封入する必要があるが、雲母膜などは作れるはずもなく、プラスチック・シートでは減圧に持たない。ガス封入にも真空に引けるグローブボックスが必要で、購入も検討したが結局は断念した。カソードをプラスチックで作って内面にメッキするアイディアもあったが、やはり難しい。そもそも、いろいろとプロセスが増えると結局高価なものになってしまう。それは、本来の目的とは違うということで、方針を転換した。


いわゆる「大気圧空気GM管」への挑戦


次に、「大気圧空気GM管」をベースにした、自作もできるGM計数管を目指すことになった。


「大気圧空気GM管」は1990年代に高校の先生方がいろいろと発案しているが、構造や動作条件がはっきりしなかった。さらに、数1000Vという高電圧を使用することへの警戒感から、できるだけ動作電圧を下げられないかというチャレンジも受けた。


そこで、基本に立ち返って、管径、アノード材質、カソード材質、アノード形状、ガス組成などを網羅的にパラメータとして実験することにした。とはいえ、入手できる材料も限られているので、原則として秋葉原やホームセンターで入手できる範囲に止めることにした。そうすれば、だれでも自作できるという考えで。ただし、ガス組成だけは、決め打ちでヘリウムを追加した。これも、入手できないことはないので、自作の障害にはならないと考えた。


結果は「らでぃ」に詳細を掲載してあるが、最大の収穫は「大気圧空気GM管」がうまく行かない原因がブタンガスの濃度にあったことがわかったことと、伝統的な二つ折りのアノードは印加電圧がアノードの線径にそれほど依存しないことが分かったことである。また、ヘリウムGM管は、概ね動作電圧が空気GM管よりも1000V程度低くなるが、それほど印加電圧の低減に寄与しないことが分かった。紙カソードも、金属カソードと遜色なく、しかも扱いやすいことが分かった。ただし、この段階では、それぞれ「何故?」という問いには答えられていない。その後、クリアケースを利用したGM管に進んだ段階で、オープンGM管の特徴を生かして、その謎を解きに行った。


管径の依存性からは、空気GM管でも6000Vていどの高圧電源が確保できれば、口径50mmクラスを動作させることができる目途がついて、その後の開発目標につながった。


クリアケースGM管の着想


学校の授業で使うとなると時間の制約があるので、できるだけ多くの計数ができる方が望ましい。装置の大きさはとりあえず置いて、口径50mmクラスを目標とした。これならば、市販のGM管と同程度の計数が期待できる。問題は容器で、「大気圧空気GM管」では紙カソードなので、容器に丸めて入れれば済む。プラスチック容器で適当なものがないか探したが、実は、すでに購入してあったプラスチック容器を見つけた。ネクタイなどを入れて販売したり、展示したりするクリアケースで、ちょうど口径50mm、高さ50mmの容器だった。プラスチックの蓋があるので、そのまま端窓にもできる。ラップフィルムをいちいち被せて輪ゴムで止めるよりは簡単になると考えた。プラスチックの厚さは0.3mmほどなので、遮へいによる減衰はあるが、まずはためしてみようと。


この簡易型GM管はほかにもいろいろ有利な特徴を有する。蓋を被せるだけの構造なので、内部を自由に変えることができる。つまり、アノードやカソードなどの構造物をパラメータとした実験に適している。オープンなので、ガスの入れ替えも自由にできる。これらは、学校における放射線教育カリキュラムとは別に、「大気圧空気GM管」の個々の特性を明らかにする実験に資する。この展開や成果も「らでぃ」に詳しく掲載した。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)