繰り言

発展なのか


発展という言葉は、内在的に肯定的な価値観を含んでいる。発展と言っても、長い目で見たときには実は退化だったということもある。軍事技術などはその例ではないだろうか。紛争は、人類が耕作を始め、土地の縄張り争いから始まった、と言われている。専制的政治には紛争が付き物だ。個人レベルでケンカをするのと同様に、国レベルで戦争をする。しかし、必ずしも専制君主や専権的指導者が主導しているとは限らない。歴史的に見ると、人民の側がそれを支持していたことが多い。人民の熱狂を、陰に陽に指導者は利用する。人民が望まないことは指導者にもできない。情報統制、プロパガンダフェイクニュースなどの、あらゆる手段で人民をその気にさせる。その潮流を、人民の側に立つべき、マスメディアが煽っていたことも歴史が証明している。


ともあれ、人類は科学技術や制度、政策によって発展を遂げた。しかし、これまでの成長一本やりの思想では、これからは立ち行かない。例えば、高度成長は公害を生み出した。公害は克服されたが、これからの課題の解決には、科学技術や制度、政策の生み出す負の側面を先読みすることが必要と考える。世の中の潮流は、往々にして問題点があるのを軽視する、あるいは意図的に無視する。例えば、モノを作るには、資源とエネルギーが必要だが、必ずその過程で、廃棄物や無駄が発生する。あるいは、製造の過程で有害な副産物ができる可能性もある。公害も後で問題になったように、最初から分かるとは限らないが、可能な限りすべてを想定しておく必要がある。


原子力開発は、最初から自然災害や廃棄物のことを考えてシステムを設計した。それでも事故は起こった。人間は都合の悪いことを考えたくない性質があり、都合よく考えたがる。判断は難しいかもしれないが、現状の知見では想定外でも、その兆候があると考えられれば、最低限の対策は考えておく必要があると思う。


世の中の潮流をマスメディアが左右することも多い。売れなければという、商業主義は仕方ないにしても、物ごとの良い面も悪い面も余さず伝えてほしい。また、それだけの矜持がなければ、マスメディアはただのアジテーターに堕落する。これまでも多くの例を見てきた。当然、マスメディアだけに罪を負わせるわけにはいかない。昨今は、ソーシャルメディアの影響も大きい。いずれにしても、受け取る側も賢く、吟味して受け取る必要がある。そのためにも、自分で考える教育は必要だ。フェイクニュースも騒がれる昨今は、余程の眼力がないと見分けがつかない。誰もがもっともっと賢くならないといけない。知識だけではなく、選別眼という総合的な判断体系を磨いておく必要がある。


人はそれぞれ考え方が違う。だから、お互いを摺り合わせるために、会話や議論が必要になる。相手への思いやりは、そのプロセスで生まれる。議論は優劣を決めるためのものではない。相手の考え方を知り、こちらの考え方を伝えるプロセスでもある。日本人の特性として、対立を避けたがる傾向があると言われる。議論は、往々にして対立を生む。対立は勝ち負けにつながりやすいが、妥協点を探るのも議論の役目だ。多数が正しいという保証はなく、お互いに納得のいくまで議論して、落としどころを探る必要がある。


発展と言えば、昨今は脱炭素社会実現に向けて、自動車のEV化や太陽光発電の加速が取りざたされているが、製造コストや性能ばかりが強調されているような気がする。リチウムバッテリーや太陽光パネルの資源獲得や製造から廃棄までの問題点を、エネルギー確保も含めて、つぶさに解説した記事は見たことがない。勉強が足りないのだろうかと疑ってしまう。国家間の思惑や、業界の期待は分かるが、世の中の潮流を煽るばかりでなく、冷静に物事を見つめることが肝要と思う。何事にも、良い面と悪い面がある。


SDG’sも流行のように見えるが、地球が閉鎖系であることを強調していることは間違いない。しかし、SDG’sは持続可能な成長を掲げていて、まだ成長を夢見ている。先進国と発展途上国の問題も、格差がある間は解決したことにはならない。閉鎖系の中で、全体が発展することが困難だとすれば、これはゼロサム問題になる。先進国が生活レベルを下げて、発展途上国の生活レベルを上げるしかない。SDG’sをビジネスチャンスと見て先進国が主導しているように見えるが、先進国に生活レベルを下げる覚悟はあるのだろうか。地球が資源とエネルギー源で破綻すれば、自然が持つ年間の再生産能力の範囲で、人も減り、自給自足の生活に戻るしかない。


皆さん、頑張ってください。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)