最終更新:父・哲の思い出


(2016年、地元の高級割烹にて)

このブログの著者、尾崎哲(id:apgmman)の息子の隆(id:TJO)です。2022年5月13日17時27分、父は甲状腺扁平上皮がん及びその合併症である呼吸不全のため逝去いたしました。77歳でした。読者の皆様におかれましては、生前に賜りましたご厚情に深くお礼申し上げます。


このブログは、2021年10月に大きく進行した腫瘍が見つかり11月にステージIVの甲状腺扁平上皮がんと診断され、姑息療法のため入院したものの無聊をかこっていた父に「折角時間があるのだからこれまで仕事や趣味で取り組んできたことを振り返ってブログにでもまとめてみてはどうか」と僕が勧めたことで、始まったものでした。


最終更新となるこの記事では、父自身がこのブログの中で語ったこと、そして語らなかったことも交えて、亡き父を偲んで息子から見た姿を振り返ってみようと思います。


研究者・企業人としての父



(1986年、ヨーロッパ出張にて)

記事最後の略歴にもあるように、父は東大工学部・原子力工学科で博士号を取得し、その後東芝で原子炉材料の研究に従事した企業研究者でした。


しかし、以前より母から聞いていた話では、父は最初から企業で働くことを目指していたわけではなかったようです。企業に進んだのは、1) 学生結婚していて既に母が働いていたのでのんびり食えない学者をしている状況ではなかったこと、2) 当時はオーバードクター(OD)問題が深刻でそもそも学位取得後も有給の仕事があるとは限らなかったこと*1、の2点が大きかったようです。上記の回想記事にもあるように、父は研究室の助教授の先生の紹介で東芝に入社しています。一方で、父の同期の中にはODを経て東大に職を得て、最後は東大の教授になった人もいました。


そういう経緯があったせいか、父は時折アカデミアへの未練とも取れる態度を見せることがありました。実際、何度か色々な大学のアカポスに応募しないかという誘いを受けた時には、業績を整理して応募しようとするところまでいったことがあるそうで、一度は京大の准教授のポジションにも応募しようとしていたそうです。ただ、どういうわけか毎回父は結局応募しなかったのでした*2。その代わりとして息子である僕に父は期待していたようですが、その僕も最終的にはアカポスに就けず企業に転じています*3。親子2代でアカポスには縁がなかったようです。


とは言え、父は東芝でも真摯に研究課題に取り組む研究者であったように息子の目には映っていました。これは、父の業績をGoogle Scholarで調べた結果や特許情報をJ-PlatPatで調べた結果*4からも窺えます。父が現役の頃は書斎やリビングの棚に原子力工学や機械工学に関する学術書や、量子力学など関連する物理学の教科書、さらにはモンテカルロシミュレーションを手掛けていた*5こともあって数値解析の専門書などが並べられていました。僕は子供心に「研究者というのはこれほど勉強しなければならない仕事なのか」と思ったものでした。一方で、後述するように父は典型的なマイホームパパだったこともあり、帰りが遅くなることはあっても朝帰りするようなことは一度もなかったと記憶しています。携帯電話もない時代に、帰宅が遅ければ必ず電話を寄越すような律儀な父でした。


もっとも、昭和の時代に大企業に勤めるというのはたとえ研究所採用であっても「宮仕え」的サラリーマンになることを意味していたわけで、回想記事にもあるように何度も出向を命じられてその都度研究活動を中断し、時には畑違いの仕事もしていたようです。どちらかというと、息子の目からすると父は研究の仕事よりも本社勤務の仕事を真面目にやっていたという印象がありました。結局、父が最後に研究活動に本腰を入れていたのは回想記事中にある「軽水炉のチャンネルの影」に関する仕事で、これは実際に当時も「珍しく3本もまとめて論文を書いたぞ」とかあまつさえ「ノーベル賞も狙えるぞ」などと父自身も誇っていたのですが、あまり脚光を浴びなかったのは残念な話でした。


父は後述するマイホームパパ的な性格もあってか部下や後輩の人たちには優しかったそうで、母からの伝聞では父の下についた人たちは皆父よりも上の職位に出世していったそうです。しかしその反面、父は気に入らない上司には公然と刃向かっていたそうで、何回かあった出向の中には上司から半ば懲罰的措置として「出された」ケースもあったのだとか。案外会社では、家族の誰もが知らない強情な側面を見せることもあったのかもしれません。


僕にとっては、時分に物心と分別がついて以降の父がやっていた仕事で一番印象に残っていたのは原子力広報担当部長時代のことでした。当時はOB会社にも所属していて時には珍しく締切に追われるような仕事もしており、父が仕事のために泊まり込みで徹夜するというシーンもありました。そしてそれ以上に面白かったのが、役得というわけではないですが社外のイベントか何かの打ち上げで、当時社長だった西室泰三さんに同席し、さらには西室さんからお酌されたという話でした。それを聞いた家族全員が「これだから学者バカはいかん、お父さんの方が真っ先に西室さんにお酌すべきだった」と呆れたのを今でもよく覚えています。その教訓があったからかどうかは分かりませんが、その後父は仕事絡みで色々な宴会に出ることが増えるにつれて宴会マナーや宴会芸を覚えていったようで、ある時にはどじょうすくいの芸を覚えてきて親族の前で披露したこともあります。


定年を迎えた後は、元来の工作好きが活かせる場として各地の科学館のボランティアの職を転々とし、時には初等教育向けの科学実験の実演をしたり、また時には「放射線活用教育」としてGM管の自作といった活動をしていました。その様子はこのブログの初期の記事で詳しく書かれている通りです。後述しますが、父にとってはこの定年後の仕事の方が楽しかったように見えます。


ただ、皮肉なことに2011年の東日本大震災では福島第一原発事故が発生したことで「原発安全神話」が崩壊。また2015年以降は長年勤めた東芝粉飾決算事件を皮切りに経営の混乱と危機に陥っています。父の最晩年は、生涯に渡って身を捧げてきた二つのものが衰退していくのを目の当たりにさせられるという、寂しいものでもあったように思えます。


家庭人・一個人としての父



(2020年、孫娘のピアノ発表会にて)

どちらかというと、息子にとって父は「東大の博士号を持つ企業研究者」というよりは「いつも穏やかで家族思いだが普段は無口でちょっと変わり者の父親」でした。嫁さんに言わせると「いつも真面目そうな顔をして口を軽くへの字に曲げて腕を組んで人の話を聞いていてほとんど喋らない」という印象だったそうですが、僕にとってもそれは全く同じです。


食事の席でもそれは同じで、夕食になると父は料理が揃っても全く手をつけずにしばらく静かにビールを飲んでいたものです。ところが、僕が父を見てああビールを飲んでいるなと思いながら自分の分を食べ始め、次に父に目をやると既に父が自分の分を綺麗残らず食べ切った後だった、というのが毎回の定番でした。これは冗談でなく、父は本当に食べるのが早い人で、家族の間では「食事を食べる前と食べた後は見たことがあるが食べているところは見たことがない」とまで言われる始末だったのです。当人に言わせると「札幌・桑園での大家族時代に食いそびれないように他人よりも早く食べる習慣が身についた」そうですが、それにしても本当に早かったという記憶しかありません。そして食べ終わるとまたいつもの腕組みして無口な姿に戻る、というのが定番でした。


父は中年の頃は上記のように早食いであるのみならず結構な大食いで、一時はかなり体重も多かったのですが、あまり味にはこだわりがなかったようです。栄養学専攻出身の僕の嫁さんが手料理を振る舞った際にも、どういうわけか「食事にとって重要なのは喉越しと腹いっぱいになった感であって味は腐っていなければ何でも良い」と力説して、嫁さんをがっかりさせる一幕もあったりしました。


そんな父ですが、酒が沢山入ると饒舌になって色々と喋り散らかすのが常でした。割と父は酒に強い人で、僕が酒を飲んでも顔が赤くならないのは父譲りのようなのですが、一方である程度以上の酒量を越すとどこでもごろんと転がって寝てしまうことが多かったです。長らく、家族から見ると父は「酒が入った時だけ良く喋るがそれ以外は寡黙な人」でした。ちなみに母に言わせると「根は意外と短気な人」だそうですが、息子の僕が父の短期な様子を目撃した回数は多分闘病生活に入る前だと五本の指で数えられるくらいしかなかったと思います。


父の性格で特記されるものは「無類の工作好き」ということ。例えば僕が子供の頃は「学研の学習・科学」を毎月買っていたのですが、「科学」についてくる付録の工作は毎回父が作ってしまうのがお決まりのパターンでした。それは僕が不器用で毎回すぐ放り出してしまっていたせいもあるのですが、今にして思えば無類の工作好きの父にとっては自身が(息子を差し置いて)楽しみたい定番の娯楽だったのかもしれません。


今でも良く覚えていますが、東芝を役職定年になった後の父と僕の2人で実家の玄関ドアを修理していた時に、ふと父がしみじみと「本当はこういう工作みたいなことをずっとしていたかったんだよね、成り行きで博士課程に進んで企業研究者になったけど、本当にやりたいことではなかった気がする」という趣旨のことを言ったことがあります。そういう父だったので、引退後に各地の科学館ボランティアで子供向けの科学実験工作を手がけたのはまさに「天職」だったのでしょう。


真面目一筋の父は勉学を極めてそのまま博士課程にまで進んで工学博士になったわけですが、一方でそこまで進んでしまったことで逆にキャリアに硬直性が生まれてしまったことにずっと戸惑っていたのかもしれません。母からの伝聞では「会社でもテストを受けた成績で昇給や昇進が決まればいいのになぁ」と言っていたことがあるそうで、良くも悪くも「学校の優等生」的な人だったように思います。


優等生的な側面が変なところに現れることもありました。母が自宅で小中学生向けの学習塾をやっていた都合もあり、時々父はカレーライスやおでんといったメニューの夕食を作ってくれていたのですが、必ず「説明書きに書かれている通りぴったり正確に作る」んですね。これが、恐ろしいほど一切のアレンジや独自の工夫がなく、うっかりすると没個性なのではと思うくらいマニュアル通りの作り方をするのです。父の中では「レシピに沿って忠実に作るのが料理」だったのでしょうが、これはきっと実験工作からの延長だったのだと思われます。


そんな優等生的な父だったのですが、不思議と仕事に関してはそれほど真面目でも熱心でもなかったように伝え聞いています。回想記事にもあるように、折角東芝の研究所に入れたのに「研究テーマにはこだわりがなかった」そうですし、会議中は良く居眠りしていたそうで*6本社出向時には当時の上司からわざわざ「本社では会議中に居眠りしないこと」と釘を刺されていたと聞きます。しかも父は、朝起きてちょっとでも熱があったら「熱があるので休みます」と平気で会社に電話していましたし、何なら雪が降ったら「雪なので休みます」と電話しかねない勢いでした。そういう諸々があって、昭和の時代の会社にあってはあまり出世できなかったというのが母の述懐です。上述のように、むしろ引退後の科学館ボランティアの仕事をしている時の方がずっと楽しそうで尚且つ意欲的でした。


しかし、それは今にして思えば「仕事より家庭」という父の「マイホームパパ」ぶりがなせる業だったのかもしれません。昭和の時代の父親にしては珍しく、父は何かというと仕事を放り出して早く帰ってきたり、母や子供の具合が悪いと堂々と年休をとって看病に当たったりしてくれたものです。思い起こせば、息子の僕が東大の合格発表を見に行った時も会社を半休して一緒に来てくれたのでした。とにかく家庭が最優先の父だった、というのが強い印象です。


なお、父が亡くなってから知ったエピソードなのですが、僕と姉が既に学生or社会人となって昼間は家にいないようになった時分に、虚弱体質の母が朝食時に気分が悪くて戻してしまうということがあったそうです。それを見た父は「とりあえず午前中の仕事を片付けてくる」と言って会社に向かい、昼頃に突然帰宅してくるなり母のためにお粥を作り、母に食べさせたら再び会社に向かったという話でした。当時の父は片道2時間半ぐらいかけて通勤していたはずですが、それでも母のために1日で2往復することも厭わなかったのです。


勿論「臼で挽いても死なない」と言われたほど頑健だった父ならではのエピソードなのですが、自分の奥さんや子供のためにはどんな努力も厭わないというのが当たり前の、昭和の時代としてはかなり珍しい家庭最優先のマイホームパパだったというのが息子から見た印象でした。


なお全くの余談ですが、父はどういうわけか極端な飛行機嫌いでした。このブログの自筆記事にもあるように「新婚旅行で遭遇した飛行機のトラブルで飛行機に乗るのが怖くなった」そうですが、それにしては随分と極端で実際に海外出張も相当な回数断っていたようです。どうやら断り切れずに行ったのが米国の1回とヨーロッパの2回だったようで、プライベートでは子供たちが結婚するまでは一度も海外どころか国内でも飛行機が必要なところに家族旅行で行ったことはありませんでした*7。けれども、2010年に我が家夫婦と一緒にハワイに行って以降は積極的になったのか、同年には当時エンゼルスにいた松井秀喜の試合を観戦しに飛んでいますし、2014年にははるばるニューヨークまで我が家夫婦と一緒に飛んでいます。案外ただの食わず嫌いだったのではないかと、息子としては思っています。


闘病生活



(2021年12月、入院先にて)

当人にとっても家族にとっても、父のがん発覚は晴天の霹靂でした。元々父は原子炉エンジニアであり普通の人に比べて格段に放射線被曝を重ねている上に、祖父(父の父)が進行性胃がんで60歳という若さで亡くなっていることもあり、非常にがんを恐れていました。それゆえ毎年の甲状腺の検査やがん検診には非常に熱心で、その執拗さは語り草になっていました。そして実際、2019年まではがんを窺わせる微かな兆候すらありませんでした。


ところが、2020年に入ってから「臼で挽いても死なない」と思われるほど頑丈だった父が細々とした体調不良に見舞われるようになり、2021年5月に「喉がつかえる気がする」ということで病院を受診したところ、胸腺腫と思しきしこりがCT/MRIで見つかりました。外科からは生検を兼ねた摘出手術を勧められたものの、タイミング悪くこの直後に新型コロナウイルス・デルタ株による第五波が襲来したこともあり、結局「胸腺腫なら進行も非常に遅いので半年後のフォローアップで良い」という判断になったのでした。


しかし同年10月になると父が「喉がつかえる」だけでなく声が上ずって枯れたようになった上に、嚥下障害を起こすようになり、当人自身が調べて「これは反回神経麻痺による声帯麻痺ではないか?」ということで予定を前倒して造影CTを撮ることに。その結果、胸腺腫と思われたしこりが2倍以上の大きさに拡大していたことで、まず「胸腺がんの疑い」と一度判断されました。しかしこれほど増殖が早い胸腺がんはあり得ず様子がおかしいということでPET検査や生検による組織検査を経て、最終的に同年11月に「稀少がんである甲状腺扁平上皮がんのステージIVで根治は不能」と告知されたのでした*8。姑息療法以外の選択肢はなく、放射線治療抗がん剤を併用して進行を遅らせるのみである、と。


他の家族がショックを隠せない中、父が見せた態度は意外なものでした。主治医に対して父は「自分はこれまで原子力のために生涯を捧げてきたが、原発事故などもあって社会や世間が原子力をただただ危険なものとのみ見做すのを残念に思っていた。だが、こうしてついに原子力そして放射線が役に立つと示す機会がやってきた。残りの時間は放射線の有用性を身をもって証明することに充てたい」という趣旨のことを言ってのけたのです。そこで、最初は通院で週1回放射線治療を行うことになりました。この頃の父は嚥下食に使うとろみ剤をうまく水と攪拌するための電動ファンなどを自作して「手でかき回すよりはこの方が効率的だ」などと得意がっていたりしたものでした。


ただ、皮肉なことに甲状腺扁平上皮がんは放射線抵抗性が強く、しばらく放射線治療を続けたものの腫瘍の拡大が収まらないことから、意味がないという主治医の判断で中止することに。当初父が抵抗を示していた抗がん剤での局所制御を目指すことになったのでした。この頃には父も体力が落ちてきて週1回通院するのがしんどいということで入院することになり、さらに腫瘍に圧迫された気管と食道がみるみるうちに細く潰れていったことで口から物が食べられなくなり、経鼻経管栄養に頼ることを余儀なくされました。自然と水平生活が長くなり、父は無聊を慰めるために当時非常勤で勤めていた北の丸科学技術館の仕事(以前にも紹介した「らでぃ」など)をベッドサイドでやっていたそうです。聞くところでは、GM管キット一式を持ち込んで工作までやっていたそうで、主治医が院内の運営委員会を説得するのに苦労したとか。このブログを書き始めたのもその頃です。


一つ愉快だったのは、「病室に電子工作キットを持ち込みブログまで書いている76歳(当時)の老博士がいる」という噂が主治医や担当看護師を通じてフロア内に広まり、そのフロアのスタッフで父のことを知らない人はいないというほどの人気者になったということ。往年の寡黙で人付き合いの苦手な父を知る身としては意外な感がありましたが、今にして思えば原子力広報担当部長時代に覚えた「人との付き合い方」が功を奏したのでしょう。上の写真は父と親しくして下さった看護師の方々に撮っていただいたもので、当時の入院フロアでの父の人気ぶりが偲ばれる一枚です。主治医からも「可能なら私が責任を持ってお看取りしたい」との言葉をいただいたほどで、よくよく周囲から慕われたものだと感心するばかりです。


その後、幸運なことに1コース目の抗がん剤がある程度効いたため、主治医からは「同じ姑息療法なら在宅の方が良い」と勧められ、同時に実家の近くの実績豊富な在宅医療・看護専門クリニックを紹介されたので、思い切って中心静脈栄養*9に切り替え、退院してきたのでした。同年12月末のことです。この頃の父はまだまだ健啖で、自分でミキサーを使ってスープを作ったりして口から食事もしていました。流石に正月のお節料理と酒はダメでしたが。


ところが、1コース目の抗がん剤が効かなくなってきたのか、父の嚥下障害が進行したことで翌年1月に再度入院することに。両側声帯が麻痺すると呼吸不全で命に関わるため、気管切開を行なって呼吸経路を確保した上で再度退院したのでした。2コース目の抗がん剤は週1回通院して点滴で投与するタイプのもので、非常に良く効いたことから一時は狭まっていた気管が11月の時よりも大きく広がるというところまで腫瘍を押し返すことができたのでした。同時に左肺にあった転移巣もほぼ消え、長期生存の可能性が見えてきたかに思われました。


この頃の父はそれ以前にも増して健啖なもので、何でもカレーライスを食べてみせたりしていたそうです。父の嘯いて曰くは「やや水分が少ないくらいの料理の方が食べやすい」と。ただ一方で、迫り来る最期を見据えて父なりに色々な整理もしていました。特筆すべきは、長年法事をお願いしていたお坊さんに依頼して、母と揃って生前戒名を授けてもらったことでしょうか。そのついでに祖父母の戒名に院号を追加してもらったり、さらには近所の葬儀屋に会員登録して事前に葬儀即応の手配をしておくなど、「終活」も着々と進めていました。一方で日々新たな食事のメニューに挑戦するなど、飽くなき生への執念というか食への執念を見せていたのを思い出します。北の丸の科学技術館の最後の仕事も、この頃にまとめて科学技術館に提出していたそうです。


また、入院していた頃に見せた同じ謎の「慕われ力」を、この頃の父は訪問医療・看護のスタッフの方々に対しても遺憾無く発揮していました。僕も時々実際の場面に立ち会ったことがありますが、何でもすぐ調べ物をして勉強して知識を仕入れてしまう父は、事あるごとに訪問の看護師さんに「自分が調べたところではその処置は合理的ではない、自分が提案するこちらの処置の方が良い」などと指摘して回ったそうで、たちまち訪問医療クリニックのスタッフの間でも「訪問看護に自ら指導する老博士」ということで有名になったそうです。最後まで担当してくださった看護師さんに至っては「尾崎さんは私の師匠です」とまで言わしめるほど心酔させていたとか。


しかしながら、4月半ばになると父はかなり深刻な呼吸障害を訴えるようになり、見かねた周囲が緊急入院させたところ、2コース目の抗がん剤の副作用と思われる薬剤由来間質性肺炎を起こしていたと判明。しかも、反対側の肺も転移巣が消滅したことで穴が空いて気胸を起こしていたのが進行していて、機能不全を起こしていたのでした。結局、このままでは腫瘍より先に両肺がダメになるということでこの抗がん剤も打ち切りに。この時、主治医から「今退院しないとここで入院したまま衰弱していってしまう」とのことで退院を勧められ、4月末に在宅での酸素吸入措置の手筈を整えた上で退院することとなりました。


以後、父の体調は坂道を転げ落ちるように悪化していき、ゴールデンウィークの初日には娘・息子とその家族全員を集めて、衰弱著しい父が自ら訣別の辞を述べたのでした。それからはGWを通じてみるみるうちに衰弱し、父は起き上がるのも難しくなり一日中横になるようになり、さらには呼吸障害がどんどん進行して際限なく酸素吸入の流量を増やしていかなければならなくなりました。GW明けの5/6には一度主治医の診察を受けに行ったのですが、既に外来で検査を待つ体力もないということで診察も受けず帰る羽目に。この時、主治医からは「緩和ケアのためのベッドを空けるので入院しないか」と勧められたそうですが、父は断固として断ったようです。その後はさらに体調が悪化し、あれほど生と食への執念を見せていた父から「あまりにも苦しい、頼むから今すぐ死なせてくれ」という電話を受けることすらありました。このような状況で、老々介護を強いられていた母にはかなりの負担がかかっていたように思います。


にもかかわらず、亡くなる前の最後の1週間で父は驚くべき行動に出ました。何と「物が食べたい」と言い出し、カットしたバナナ・ヨーグルトorゼリー・野菜ジュースを母や姉に持って来させては、貪るように飲み食いするということを何日も続けたのです。亡くなる前日ですらそれをやっていました。恐らくですが、「喉越し良く腹いっぱい食べる」ことが大好きだった父としては「最後の食い納め」を、明日死ぬかもと思いながら毎日繰り返していたのではないでしょうか。


残念ながら、生と食への執念を見せ続けた父もその最後の1週間でどんどん呼吸不全が悪化し、あまりの息苦しさから自ら強い鎮静剤で眠らせて欲しいと希望する場面が増えていきました。一時は入院させて24時間の管理環境下で穏やかに逝かせてやるべきだという議論を僕が提起し母も姉も検討しましたが、亡くなる前日まで意思疎通のできた父はこれを断固拒否。コロナ禍で家族が病室に立ち入れない点、そして何よりも住み慣れた家以外で息を引き取るのが嫌だったのでしょう。最終的に、強い鎮静剤でほぼ昏睡状態に陥る中、5/13夕刻に僕も含めた家族3人に看取られて父は亡くなりました。5/17の金婚式(結婚50周年)を目の前にしての最期でした。


しかし在宅ケアで最期まで看取ったことで、残された家族にとっても「やり切った」という感があります。ある意味で清々しさがあり、亡くなった後に訪問看護師の方々と一緒に死化粧を施したり死装束を着せる際には、父の闘病中の破天荒なエピソードを思い出しては声を上げて皆で笑い、そして笑い合いながら皆さんが玄関から出て行かれるという一幕もありました。無類のマイホームパパであった父が固い意志で最後まで押し通した在宅ケアを通じて実現したかったのは、もしかしたらそういうことだったのかもしれません。


略歴


最後に、父の略歴を記しておきます。プライバシー保護及び読みやすさなどのため、当人直筆の略歴を息子の判断で一部改変・加筆修正したり註を付している点ご了承ください。


1945/03/04:北海道札幌市桑園で出生、父・正*10、母・文*11とともに大家族で暮らす。

1951/04:札幌市立桑園小学校に入学、父が結核北海道大学付属病院に入院し、母と弟、妹*12は、北九条の帝国製麻社宅に転居したが、哲は桑園に残った。

1952/04:札幌市立北九条小学校に転校、社宅に転居。

1954/10:静内町立高静小学校に転校、父の回復で転地療養を兼ねて、静内工場に転勤、雪の積もる中、馬橇で社宅入り。

1957/04:高静小学校卒業、静内町立静内中学校に入学、理科クラブで大沼公園にキャンプ、駒ヶ岳登山が初めて旅行体験。

1958/08:世田谷区立駒沢中学校に転校、父の転勤で世田谷区上馬の社宅に転居、真夏に学生服で上野に降り立ち、暑さの違いに驚いた。

1960/04:東京都立戸山高等学校に入学、部活動はなし。

1963/03:卒業したが、東大、横浜国大とも大学入試に失敗、駿台予備校に通う。

1964/04:東京大学理科一類に合格、駒場教養学部に通う、サークルはコールユリゼンという混成合唱団。

1966/09:進学振り分けで工学部原子力工学科に、後期から旧浅野邸跡*13原子力本館に通う。

1968/04:修士課程に進学、原子炉材料研究室、向坊教授*14、菅野助教授に師事、トリウム化合物の製造と物性を研究、放射線作業従事者。

1970/04:博士課程に進学。

1972/05:結婚、市川市真間山下のアパートが新居。

1973/03:単位取得退学、学位取得(工学博士)。

1973/04:株式会社東京芝浦電気に入社。

1973/08:総合研究所に配属、高速増殖炉の材料研究に従事、重イオン注入の際のイオンの動きをモンテカルロシミュレーション、金属材料のナトリウム腐食を支援、つまり徹夜要員、放射線作業従事者、アスベスト取扱者。

1973/10:長女*15誕生。

1976/04:鼠径ヘルニア手術*16

1977/04:主務。

1977/09:長男誕生*17

1978/03:動力炉・核燃料開発事業団に在職出向、本社燃料グループで常陽MarkII炉心の照射装置ともんじゅの燃料集合体の開発を担当。

1979/04:米国出張。

1980/04:出向解除、原子力技術研究所に配属。

1983/10:磯子エンジニアリングセンター駐在。

1986/03:英国、フランス、ドイツ、イタリア出張。

1986/04:主研(主任研究員)。

1990/04:本社技術企画部。

1992/04:原子力技術研究所原子力管理担当。

1993/04:原子力管理担当部長。

1994/04:原子力材料グループ。主幹。

1995/04:横浜事業所駐在。

1996/04:本社企画室原子力広報担当部長、アイテル技術サービス*18兼務。

1997/11:原子力文化振興財団主催原子力広報調査団(フランス、ドイツ、ベルギー)団員。

1999/11:東芝退職。

1999/12:アイテル技術サービス入社、東芝原子力企画室原子力広報担当部長兼務。

2000/02:コバケンの第九を歌う会(市川市文化会館)に参加。

2005/03:東芝定年退職。

2005/04:原子力文化振興財団入社、未来科学技術情報館技術相談員。

2007/12:未来科学技術情報館の閉館に伴い原子力文化振興財団退職。

2021/11:ステージIVの甲状腺扁平上皮がんと診断され、療養生活に入る。

2022/05/13:自宅にて家族に看取られ逝去(77歳)。

2022/05/18-19:通夜・告別式ののち荼毘に付される。戒名は叡明院峻岳哲瞭居士。墓所市川市営霊園。

*1:当時はポスドクの概念がなく、常勤の助教(助手)の職に就けなければ無給の研究員に甘んじる以外の選択肢がなかった

*2:その理由はついに父から聞きそびれました

*3:研究者を辞めた時のこと、そしてその後のこと - 渋谷駅前で働くデータサイエンティストのブログ

*4:j-platpatで「尾崎哲 東芝」で検索して1997年7月以前を参照しています

*5:パンチカード式のコンピューターぐらいしかなかった時代にはこれは物凄い話なのです

*6:2回目のヨーロッパ出張の時の写真では現地での会議中に居眠りしている様子を撮られています(笑)

*7:「乗っている飛行機が落ちて一度に全員死んだらどうするんだ」が口癖でした。なお例外として、一部遠隔地の国内出張と北海道の親戚が危篤になった時は飛行機に乗っています

*8:生存期間中央値が9ヶ月と膵臓がん並みに短い

*9:中心静脈に通じるカテーテルを常置してそこから栄養点滴を行う

*10:息子から見て祖父に当たる

*11:息子から見て祖母に当たる

*12:息子からは叔父・叔母に当たる

*13:浅野キャンパス

*14:向坊隆(1917〜2002)、のちに東大総長(1977〜81)。なお余談ながらid:TJOの名は向坊先生から父が勝手に頂戴したもので、父は時々先生に息子の話をお伝えしていたようです

*15:息子から見て姉

*16:2020年12月にも反対側を手術している

*17:id:TJOのこと

*18:東芝のOB会社