回想

性格


生まれは北海道。札幌市の桑園というところ。父は五男二女の長男で、大家族で同居していた。終戦前はどこも同じだったらしい。北海道には曽祖父が祖父を連れて移住してきた。祖父は生活が苦しいために職業軍人の道を選び、軍馬を扱う輜重部隊として満州事変にも出兵している。その後は、大学で獣医学の講師をしていた。


父は大学受験に失敗し、高等商業に在学中に召集されてサハリンの国境警備に就き一旦復員したが、その後、再度、招集されて房総で首都防衛に就いて、そこで終戦を迎えている。父の兄弟はまだ若く、初孫というか初甥をおもちゃにしていたらしい。3歳ころにはドイツ語の「菩提樹」を教え込まれ、ちゃぶ台に載って歌っていたという話はよく聞かされた。


さいころから何にでも興味を持ち、古い百科事典が愛読書だった。分からないことがあると、「何で?」と聞いては周りを悩ませていたようだ。この習性は今でも変わらない。頬杖をついて百科事典を読むので、両肘にタコができ、畳屋の肘のようになっていたくらい。家にいるのが好きで、外で友達と遊んだ記憶はほとんどない。したがって、運動はからきしダメだった。父は、機械体操が得意で、スポーツマンタイプだったらしいが、脊髄カリエスを罹って、片方の肺の半分ともう片方の肺の1/3を切除する手術を受けている。その後は、さすがに運動はできなくなっていて、結局、父から運動を教わることは無かった。


大家族の中で育ったが、弟や妹が生まれてからは、もっぱら祖父母と一緒に寝起きして、実際はお爺ちゃん子だった。父が入院したころの結核は不治の病で、子供心にも不安を感じたのか、一人ぼっちになるかもしれないと思ったことがある。自分だけでも生きているようにという思いは、今に通じるものがある。何でも自分でやりたがるのは、悪い癖かもしれない。人に任せられない性格では、世の中では大成しない。


まだ、幼いころは市電に乗るときにも、満員電車で大人に埋もれ、恐怖を感じて乗れず、乗らないと言い張って家族を困らせた記憶がある。デパートに行っても人混みが怖くて、母に掴まっていた記憶もある。対人恐怖というか、その記憶は高校生のころまで残っている。多分、その性格なのだろう、小学校に入学した翌日のことをよく覚えている。母は父の看病があって、小学校の入学式は祖母に連れて行ってもらった。翌日、見知らぬ子供たちの中で、不安だったのだろうか。何を思ったのか、突然、教室の窓を開けて窓枠に載った記憶がある。学校から呼ばれ、祖母が来て連れ帰ったのを覚えている。特異な行動は他には記憶にないので、その後は収まったらしい。


桑園で小学校に通ったのは1年間だけで、その後は父の会社の社宅に移った。北海道大学が近く、父が大学病院に入院していたこともあって、北大にはよく遊びに行き、自分の庭のようなものだった。あるときは、友達と一緒にポプラ並木を進んで農場の牧舎まで行き、勝手に牧舎に入ってひどく怒られたこともあった。大学病院は野戦病院のようなありさまで、患者の身の回りの世話は家族が泊まり込みでするか、付き添いを頼んでいた。母は幼児がいたので付き添いを頼んでいた。父の会社の社長が渡米して、当時の最新医薬を従業員のために買い求め、治療に役立てていた。そのおかげで命拾いをしたと父から何度も聞かされた。


確か、小学3年生のとき、社会科の授業だったか、先生が「男と女とどちらが偉いか」と皆に尋ねたことがあった。「偉いか」だったかははっきり覚えていないが、そういう趣旨の問いかけだった。当然、男の子は「男」と言い、女の子は「女」と答える。その中で、「どっちでもない。両方だ。」と発言したところ、男の子からは裏切り者扱いされ、女の子からは変な人と思われたらしい。妥当な発言だったので、先生がその場はうまく収めてくれたが、自分が正しいと思うことは曲げずに主張する態度はこの頃からあったらしい。


話しはズレるが、この独善的とも言える性格が現れて周りを悩ませてきたのが、手書き文字。誰が書いたか、一目で判るとも言われた。下手かと言われると反論する。下手な字というのは、同じ字が同じに書けないのを言うと思っている。同じ字は同じに書いているので、特徴を掴めばむしろ判りやすい。〇〇〇フォントと言われた。他人の字を下手だという人は、自分が下手だから言うのだと勘ぐっている。言い訳がないでもないのは、たまたま、学校で習字を学ばなかった世代だったことがあるかもしれない。最近は、トメ、ハネ、ハライを過度に矯正する先生もいるらしいが、トメ、ハネ、ハライで、別の字になることはないと考えれば意味のないことと思う。また、一画は一画なので、カドがなく丸く書いてしまうのも〇〇〇フォントの特徴となっている。父も母も書道をやっていたので、別に手筋が悪いとは思えないが、これも性分なのだろう。その後の、ワープロやパソコンの普及によって、手書きがプリント出力に取って代わり、周りを困らせることはなくなった。ワープロは、東芝が出したポータブルワープロのルポを今でも残してあって、インクリボンも取説も整っている。


自然の中で


小学校高学年から中学2年生までは、日高郡静内町に住んだ。札幌からは汽車で2時間ほど。雄大日高山脈がそびえ、静内川が流れる牧歌的な町。父が勤務していた亜麻工場が静内川の河川敷にあって、社宅もその一角にあった。当時は北海道一円で亜麻が栽培されていて、米がとれないので換金作物としての価値があった。戦前から亜麻製品は南方用の軍服として需要があり、繊維業でも大手だった。亜麻工場では、亜麻を水に漬けておき、乾燥させてからムーラン(羽根車)で茎を落として繊維だけを取り出す。水に漬けた亜麻は悪臭を放つので、立地は限られていた。まわりは、アイヌ部落で、まだ、刺青をして、アツシを着る年寄りも多かった。河川敷には牧場もあって、馬や綿羊が放牧されていた。河川敷から出ると広い農地が広がっていて、いかにも北海道的な風景だった。別の言い方をすると、他には何もない。近くには店もなかった。町の中心部までは2kmほどなのでそれほど遠くはないが、未舗装の道路をトラックの土ぼこりを浴びながら歩くのは結構大変だった。バスはあるが、本数が少ないので歩いた方が断然早い。札幌という都会育ちからすると、静内は自然豊かで新鮮だった。


静内であったできごとで、印象に残っているのは、台風の増水で静内川の堤防が決壊し、工場が一面水浸しとなって、夜、膝まで水につかりながら唯一の避難場所であるボイラー室のボイラーの上に避難したこと。昼間になると、氾濫した川を風倒木が流れ、蛇がそれに絡まっていたこと、川近くの孵化場の住人がヘリコプターで救出されるのを見たことなど、自然の驚異を身にしみて感じた。その後片付けは大変だった。まだ、家具の少ない時代で、机とタンスくらいしかない。タンスはダメになったが、今ならば家具も多いので被害は甚大になる。もう一つは、オーロラを見たこと。そのときは、北の空が赤く染まるのを見て、皆、山火事かと思ったが、後で、それが北海道で見られた珍しいオーロラだったことが分かった。北天が薄い赤で染まるのは神秘的で、これも自然の驚異と感じた次第。


転校生は何かとちょっかいを出されるのが常である。とくに都会からくると、そううだ。すぐにちょっかいを出してくる同級生が隣にいて、よくケンカした。力では負けるが、強い味方がいていつも形成が不利になると助けてもらった。あるとき、授業中に我慢の限界を超え、取っ組み合いのケンカになったことがある。それ以来、二人が並んで座ることはなくなった。


小学4年生から卒業までは、担任は持ち上がりだった。引っ込み思案で、手も上げないのを見て、先生も何とかしたと思ったのだろう。当てられれば、正解はする。学級委員にさせられたこともあったが、統率力はおろか、発言力が全くないのですぐにお役御免になった。ただ、一度だけ、理科の授業でモーターを作ったことがある。そのときは、先生の助手としてコイルのまき直しや、不具合の修正などを手伝って、すっかり面目を施した。将来はエンジニアにというのは、当時の流行でもあったが、口下手で人見知りの性格から、人と付き合うことのない研究者になりたいと思うようになったのはこの頃からかもしれない。


中学校でも本領を発揮している。元々、勉強の反復練習(ドリル)が嫌いで、何で分かっているのにいちいち回答しないといけないのか、という思いがあった。中学1年生の頃、宿題を全く出さずにいた時期があった。担任の先生に呼ばれて、怒られるかと思ったが、そうではなく、なぜ宿題をやってこないのかと尋ねられた。分かり切っているから、と答えたかどうかは記憶にないが、結局は、先生に宿題の意義をこんこんと説教されて、その後は渋々従ったように覚えている。


同級生に神社の神主の息子がいた。学級委員をやらせても、弁舌さわやかで、統率力にも優れていたが、勉強の方はからきしダメだった。お互いをうらやましがったが、そんなものかもしれない。スーパーマンは滅多にいない。


眠れるライオン


このような性格でも、世の中では過度に自己主張することも、その勇気もなく、どちらかというとその場の流れに任せていた。負けるが勝ちというか、ここで譲っても何とでもなるという自信だけはあった。勝負事はしない、ケンカもしない、これは祖父の教えだったような気がする。勝負事をしないのは、勝てないからもあるが、むしろ勝つことの喜びがなく、時間の無駄とさえ思っていた。他で勝てばいいのだ。


人間には、自分でも分からない潜在能力がある。体験しないとその能力には気付かない。できないと思って逃げ回っていると、せっかくの機会を失ってしまう。そういう意味では、強制された方が開花は早いような気がする。


最初の機会は、研究所から出て、本社で技術者教育を担当したことだろうと思う。教育の企画だけでなく、進行役やコーチング、ときには講師まで勤めなければならない。受講者も、それほど多くはないところで、経験を積んだ。当然、先輩たちの真似をして。そのうちに、100人相手でも動じることはなくなってきた。と同時に、準備をすることや、それに必要な勉強をすることの重要性も学んだ。20分のスピーチなら、きっかり20分で起承転結を述べる技術も身についてきた。元より、同じ話を2度繰り返すのは嫌いで、原稿は作るが、原稿をそのまま暗唱するようなことはできなかった。教師にならなかったのも、同じ話を繰り返せないないからだったと思う。


その後、研究所には戻ったが、研究職ではなく管理職。役職定年間近には、今度は原子力広報という広報担当のリーダーに回された。研究所ではもう居場所がなかった。広報というと、人と話をして、しかも、どちらかというと説得するのが勤め。本来の性格からすると、真逆の世界だった。原子力広報は、本社広報部とは違って、電力業界に協力しつつメーカーはメーカーの立場を理解してもらう趣旨で、実際の製品を見てもらうことが主眼だった。初めて見る誰もがその巨大さに驚いた。


原子力広報の仕事はというと、工場の見学者を前に事業の説明をする、現場を案内して回る、あるいは、原子力発電所に案内をすることもある。実際、バスをチャーターして、ツアーコンダクター役をやったこともある。ここでは、いかに参加者を楽しませるかという技術を学んだ。できるだけ、良い印象を持って帰ってもらいたいから。ノベルティーの重要性も含めて。

人事権はないが、こと原子力広報ではやりたい放題だった。同業他社ともその頃は和気あいあいで、楽しめた。それぞれの会社のカラーも透けて見えた。多くは、企画部門か営業部門なので、現場ではない。こちらは、全部を受け持って、自ら額に汗して働く立場なのが大いに違った。逆に言えば、その方がすべて自分でできて楽しかった。最近は、どこでも専業化が進んで、トータルで判断したり、細部の業務に疎かったりするケースが多いように思う。自分にできないことを他人に指示することは不可能と思う。こと、技術職に関しては。つくづく、役所と付き合ってその感じを強く持つようになった。少なくとも、相当勉強したうえで、現場に出ないとできないはずだ。


いつの間にか、100人を超す人の前でも、それがどんなに偉い人たちでも、臆することが無くなった。慣れもあるのだろうが、やはり、眠っていた潜在能力が目を覚ましたと思っている。誰にでもその可能性はある。やってみなければ分からないし、できないからと言って簡単にあきらめることも、しないでほしい。この歳になってみると、これまでの経験はすべて無駄ではなかったと感じている。できるだけ多くの経験を積むことが、その人の人生に必ず役に立つと信じて疑わない。成功体験ではなく、失敗体験の方が何倍も役に立っている。失敗すれば、誰でもその理由を考える。それが、次の飛躍の糧となるはずだ。失敗してもめげないこと。失敗は人生の肥やし。その人を一回り大きくする。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)