余談:海外出張

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始めたばかりで脱線するのも恐縮だが、リクエストがあったので、40年以上も前の海外出張の失敗談というか、珍体験というか、印象に残ったできごとについて触れてみたい。もう、記憶に定かではなく、記憶違いもあるかもしれないが、できるかぎり思い出そうと思っている。


海外出張にまつわる因縁


今のように海外旅行が一般的でなかった時代。会社は研修を兼ねて、機会を設けて海外出張を命ずるのが普通で、多くの社員はそれが初めての海外旅行だった。大体、入社後の年数に応じて、幹部候補生を順番に送り出す習慣だった。


順番が回ってくるタイミングで父が病床にあったことから、何回か断っていた。声がかかれば喜んで応ずるのが普通なので、上司からは小言を言われたりした。昇進に響くよって。


実は断っていたのには、他の理由があった。それは、初めて飛行機に乗ったのが新婚旅行で、帰路、離陸して眼下に海が見えた後、雲の中を上昇するが、機体がガタガタ揺れてなかなか雲の上に出ない。大丈夫かなと思いつつ、しばらくするとアナウンスがあり、エンジン不調で出発地に戻ります、と告げられた。不安はますます募り、眼下に海が見えだした頃は、その極致に達していた。結局、無事着陸できてホッとしたが、その続きがあった。株主優待券で搭乗していたので、別会社の便に乗れず、長く空港に二人だけ残されて、待つことになった次第。出発地に戻った時には、荷物のターンテーブルには我々のスーツケースだけがカラカラと回っていた。この一件があって、すっかり飛行機恐怖症になってしまった。


最初の海外出張でのできごと


最初の海外出張は業務命令で拒否のできないものだった。当時はあるプロジェクトの主担当で、海外視察が命じられ、2人の関係者とともに海外出張した。実は、3人とも同じメーカーの社員で業務でも頻繁に付き合いがあったが、3人とも海外出張は初めての経験だった。幸いなことに、別の業務で出張する部長級が同行してくれた。英語がペラペラの方で、心強かった。


出張の時期は、ちょうどゴールデンウィーク。当時は毎年、春闘があって、交通ゼネスト、つまり当時の国鉄以下、私鉄も歩調を合わせてストライキを実施していた。したがって、空港まではタクシーに頼らざるを得なかったが、当時は交通渋滞が日常の時代。よく渋滞で搭乗に間に合わなかったという新聞記事を見かけていた。早めにタクシーで空港に向かい、無事に全員と落ち合うことができた。


出張先はアメリカだったが、当時はアラスカのアンカレッジ経由で、給油の間、空港内に留め置かれた。まだビザがある時代だったが、とくに問題もなくシアトルに到着し、無事入国できた。ところが、定時運行が稀だった時代で、遅延のために予定していた国内便に乗り遅れてしまった。早朝に到着したのに、次の便は午後。長々と空港内に止まることになったが、国内線への乗り継ぎができなかった代わりに空港内でいろいろな体験ができた。


最初に驚いたのは、滑走路から空港ビルに移動するときのこと。地下に降りて、エレベーターのような乗り物に乗った。記憶では、大型のケーブルカーくらいの大きさだったと思う。それが上ではなく、横に移動を始め、移動が終わると自動的に扉が開く、まさに横に動くエレベーターだった。これが最初のびっくり。


次のびっくりは、聞いてはいたがトイレが有料だったこと。小銭がないと入れない。まず、小銭を作ろうと、朝食を取ることにしたが、早朝なのでレストランは開いていない。機内でガッツリ飲み食いしていたのであまりお腹がすいていないこともあって、今で言うファストフード店アメリカ風に豆料理を食べた。その後、デザートと思ってアイスクリーム店にいったところ、スタンダードが2ディップ、3ディップもあって、食べる量の違いに驚かされた。


次のびっくりは、次の国内線のフライトのこと。聞いてはいたが小型機で16人乗り。周り中がよく見えて、いかにも飛行機に乗ったという感じがした。国際線では窓の外は見えなったから。しかも、パイロットは女性。さすがに珍しく感じた。レーニエ山を見ながらカナディアンロッキーを超えて最初の目的地のリッチランドについた。名前とは裏腹に、鄙びたローカル空港で、空港ビルなどなく、日本の鉄道の田舎駅よりも小さい建物があるだけだった。移動手段は車だけだが、手配していた迎えもなかなか到着しなかった。後で聞くと、予定が変わったので、時間の調整が難しかったらしい。


次のびっくりというよりは失敗談は、午後に着いたので、ホテルでコロンビア川を眺めながら夕食を取り、日が暮れていくのを眺めていたら、川を自動車のような乗り物が渡っている。水陸乗用車だが珍しかった。同僚が、「川」と言ったら、誰かが ”Yes, it’s a car!”と言ったが、一瞬理解できず、そうかそう聞こえたのかと分かって、一同納得した。失敗談は、翌朝のこと。眠気に負けて寝入ったが、朝になって電話で起こされた。朝食会が設定されていたが、3人とも寝坊して、1時間も遅れてしまった。実は、着いたのがアメリカのサマータイムへの移行日で、時差ボケに加えて夜の時間が短くなっていたのが原因と、タイミングの悪さを嘆いた次第。


次のびっくりは、研究所の訪問で入門手続きをするが、女性警備員が大きな拳銃を腰にぶら下げていたこと。日本の警察官が携帯している拳銃より倍以上大きかった。女性警備員も日本ではなかなか見られない時代でカルチャーショックを受けた。


その後は、ソルトレイクシティを経由して、アイダホフォールズへ。ソルトレイクの白さと、アイダホの乾燥地に見えた人口灌漑の丸い緑の農場の群れは新鮮な体験だった。さらに、シカゴを経て、ロサンゼルスに着いた。夕方、メキシコ料理を食いに行こうとなって、バスに乗ったが紙幣しかない。運転手に釣りはないと言われて紙幣を取られ、小銭がなくて損をした。当時のロサンゼルスの夕方はどの店も閉まっていて、ショーウインドウには何もない。物騒な街という印象を受けた。夕食といっても屋台でタコスを食べただけ。


翌日はサンタモニカに移動して、視察。こちらで夕食会を用意してあって、先方と夕食を共にした。場所は、ビクトリアステーションというレストラン。プライムリブステーキを注文するのに、何ポンドにするかと問われて、半ポンドを注文したが、さすがに辟易した。向こうの食事の量にはついて行けない。ついでに言えば、帰国後は、一種のアメリカかぶれになって、当時、南船橋ららぽーとにあった、ビクトリアステーションに行っては、プライムリブを注文した。


ロサンゼルスに戻って、さあ、帰国となったが、ゴールデンウィークで、帰りのフライトはオープンだった。便の確保に数日かかるかもしれない、と言われながら待つこと暫し。幸い、予定の期日で帰国することができたが、過食が祟って体重が4kgも増えてしまい、産業医から減量を命じられる始末。でも、この機会にダイエットに取り組み、当時は高かった0.2kg単位のデジタル体重計をわざわざ買って、一日の体重変化を調べたうえで、朝の体重を測って記録した。外食でも、ご飯は最初に半分にして残すようにし、香川式のカロリー計算を取り入れて、ダイエットには成功した。以来、そのときの体重計のまま、朝の体重測定は欠かしていない。


二度目の海外出張では


二度目は一人旅だった。イギリスの研究所に委託研究を出していた関係で、仲介する商社マンが一人、イギリスの用件だけに同行してくれた。3月だったが、交通渋滞はひどく、余裕を見て搭乗の6時間前に空港に着くようにタクシーで向かった。空港に着くと商社マンはもう着いていて、一緒に時間をつぶした。会社の規定で最初の海外出張はビジネスクラスで行ける。幸い早くチェックインしたために、ファーストクラスの席で搭乗できた。


今度はシベリア経由で、バイカル湖を眼下に見ながら、アムステルダム経由でロンドンに着いた。ロンドンはピカデリーサーカス近くにホテルを取った。朝着いたので、この日は市内見学。近くなので、トラファルガー広場、バッキンガム宮殿、ウエストミンスター寺院、ビッグベンは見た。夕食は商社の招待で北京料理


翌朝は、箱型のタクシーで、確か、パディントン駅に向かった。驚いたのは、人々が信号を無視したり、横断歩道以外で勝手に道路を横切ったりすること、まさに、自己責任なのだそうだ。駅から、列車に乗ったが指定席のはずが車両が分からない。車掌に聞くと指定車両はなく、空いている席を指定席にしているらしい。とにかく、指定されている席に座った。3月のどんよりした空の元、研究所のあるレディングに向かった。駅について下車しようとしたが、昔の客車のようなオープンのデッキで、扉は自動的には開かない。困ったのは、内側にノブのないことだった。扉の開け方が分からないうちに発車時刻が迫って焦ったが、駅員に声をかけると外から扉のノブを回してくれた。要するに、安全上の理由で中からは開けにくいようになっているらしい。しかし、扉は下半分だけで上半分はないので、上から外に手を回せば開けられる。これもカルチャーショック。


委託の進行状況や研究所を見学した後、ロンドンに戻った。


翌日は日曜日、午後にはロンドンを離れてパリに向かう。空いた時間で大英博物館をさっと見て、ハロッズで土産を買った。そこで商社マンと別れて、一人旅が始まった。


一人では時間をつぶす場所もないので、早々と空港に着いた。これが、実は早すぎた。チェックインして、空港内で時間をつぶし、飛行機に搭乗してパリに着いた。ところが、何時まで経ってもスーツケースが出てこない。最後の1個が終わって、大変なことになったと気が付いた。夜も遅く、空港スタッフと掛け合ったが、探すので出たら連絡するという。ホテルの連絡先を告げて、仕方なくホテルに向かった。当時はアルジェリア紛争があって、フランス国内でも警戒していた時代。兵士が自動小銃を持ってシェパードと巡回していた。


タクシーの運転手はベトナム人で、若い。ホテルは住所しか分からなかったが、地図を見ながら探してくれて、やっとホテルを見つけてくれた。パリの住所表記はよく分からないが、意外とよくできているらしい。着いたホテルは二流のランクで、ツーリストから帰ったら感想を聞かせてほしいと言われたほど、ツーリストにもなじみのないホテルだった。小さなクロークでチェックインを済ませ、客室に向かったが、エレベーターに乗ると、乗った側でなく向こう側の扉から降りる仕組みで、今頃は珍しくないが初めてでびっくりした。


スーツケースが行方不明なので、手元にあるのは気に入って買ったダレスカバンだけ。一応、仕事が続けられるだけの書類や所持品はあったが、着替えおろか、洗面道具もない。仕方がないので、シャワーを浴びて寝た。翌朝は、朝食付きというので食堂らしきところに行ってみると、大勢の労働者風の人々がいた。座って待つと、ウエイターが来て、カフェオレを左右のポットから上手に注ぐ。感心したが、ほかに出たのはパンだけだった。


この日は休日だったので、店は開いていない。とりあえず開いているドラッグストアを教えてもらって、必要なものは買った。せっかくパリに来たのだから、この際と開き直って、地下鉄に乗り、オペラハウスまで行き、ルーブル美術館まで歩いた。ルーブル美術館は開館直後で、空いていた。2時間ほどかけて回れる展示室は余さず見た。各展示室を一筆書きで回れるのがいい。駆け足もいいところで、モナリザを始め、ビーナス像、サモトラケのニケなど、教科書に載っている美術品を見た。大きな絵画が多い中で、ドガの踊り子がものすごく小さいのには驚いた。


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ルーブルを出た後はノートルダム大聖堂へ。中は暗く、ステンドグラスがきれいだった。鐘楼にも上った。その後は、凱旋門方面に向かい、ガイドブックに載っていたレストランに行ってみると閉店だった。仕方なく、ルーブルまで戻って、その近くにあるラーメン店で夕食を取った。かなり有名なラーメン店だったが、パリまで行ってラーメンとはと、後で嘲笑された。ホテルに戻ってから、スーツケースが見付かっているかもしてないと思って高速鉄道に乗って空港に向かったが、近距離電車なのにファーストクラスがあるのには驚いた。空港に行くと幸いスーツケースは見つかっていて、無事手元に戻った。無事というのは、当時、手荷物を北アフリカに送って、スーツケースをこじ開けて目ぼしいものを盗んでから返すという手口が横行していたので、壊されないで済んだのは幸いだった。どうも、ロンドンでのチェックインが早すぎたので、搭乗便ではなく別便でどこか遠くに行っていたらしい。アルジェリアあたりかな、と今でも疑っている。


訪れた研究所はパリ郊外にあるサクレ―。昼食会があったが、デザートが各種のチーズで、ケーキが出ると思いこんでいたのでがっかりした。


パリの次は、ドイツのフランクフルト・アム・マイン。ケルンに近い。ホテルは木造で、三角屋根。コテッジ風でのどかだった。部屋にトイレはあるが、バスはない。シャワー室が共同で3室。おどおどしながらシャワーを浴びた。研究所を訪問して、午前中は見学と研究紹介。昼食が出て終わりと思ったら、午後も続けるという。実は、ケルン大聖堂には行ってみたいと思っていたので、懇願すると車を手配してくれて大聖堂を見ることができた上に、空港まで送ってくれた。迷惑をかけて誠に申し訳ないと今でも思っている。大聖堂がいまいちの感じだったこともあるかもしれない。


ケルン・ボン空港からは、ミラノへ。途中、国内便から国際便への乗り継ぎがあって、待機中に軽食が出たが、これがジャガイモだった。ミラノでは、研究所の見学の後、食堂に誘われ、昼食を共にしたが、カフェテリア方式で美味だった。案内者が水ではなく大き目の炭酸水をがぶがぶ飲んでいるのには驚いた。研究所ではコーヒーはエスプレッソで、抽出する機械がすごかった。ミラノではミラノの大聖堂を見た。まあ、どれも同じような感じ。


ミラノからは、直行便がないという理由を付けて、ローマに行けるようにしてあった。ローマでは、ホテルにチェックインした後、夕食に出た。探したが適当なイタリアン・レストランがなく、夕食なのでコース料理が食べられる店に入った。驚いたのは、サラダの量。大きなボウルに山盛り。パスタも我々が普通に食べる量が途中で出てくる。ステーキが出て終わったが、ワインもデカンターでハーフボトルくらい出た。若さのせいか、意地だったのか、全部平らげて見せた。


翌日は市内見学。地下鉄で回れるだけ回った。コロッセオ、スペイン広場、テルミニ駅。ジプシーがたむろしていた。


帰路は、ローマからアムステルダム経由で逆回り。飛行機はローマではガラガラで、アルプス山脈が白くきれいに見えた。


これで、お終いだが、閑話休題にしては長すぎたかな。まあ、40年以上前はこんな旅だったということで、「へー」と思ってください。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)


id:TJOによる追記)

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(当時のガイドブックから転載)

パリで入ったラーメン屋は「らーめん亭」の跡に居抜きか何かで入った「ひぐま」*1だった模様です(当人の記憶でも「角にある店だった」とのことで合致します)。現在は既に閉店していて、ラーメン屋ではない別のお店が入っています。ストリートビューから見られます。

*1:こちらのブログ記事によれば1983年当時にパリのラーメン屋の勢力変化があったらしく、当人も「らーめん亭」という名前ではなかったと記憶しています