回想裏話(3)

大学時代


東大には一浪して入れた。戸山高校では、その後に大学の教授や総長になるような連中に囲まれていた。もともとエンジニア志望だったので東工大を狙っていたが、何を間違ったか模擬試験で2番という結果を見て、東大もありかなと思うようになった。クラスメートからは、番狂わせの腹いせか、今更志望校は変えないほうがいいよという忠告もあったが、一浪なら東大に入れそうだという期待は持てた。


現実はそう甘くはなく、やはり時間切れで現役合格とはならなかった。一次試験でも点数は伸ばせず、二次試験の数学は散々だった。国立二期校は横浜国大を受験したが、ここは東大以上の難関でまったく歯が立たなかった。早々に駿台予備校を受験して、理系昼間部に百番台で入れた。席順が成績順なので、二番目のクラス。それでも二学期には上のクラスに上がれた。午前中は予備校、午後は家で勉強の毎日。当時流行っていた「傾向と対策」を三回繰り返すことを実践した。人間どこかで死ぬほど努力出来るかどうかで人生が決まるのではないだろうか。


恥ずかしながら、エンジニア志望と言いながら、できたのは化学だけで数学と物理はできなかった。理一に合格するには数学は五問中三問は正解する必要があると考えて、実際の試験では二問はほぼ捨てた。逆に言えば、国語と人文地理、世界史で点数を稼いだようなものだ。まあ、何にでも作戦は必要と思う。合格を一番喜んだのは父で、早速角帽を買ってきて被せてはご満悦だった。父の受験失敗の無念さを晴らしたようにも思う。すでに角帽を被る学生は少なくなっていたので、被るのは恥ずかしくて実際には入学式でしか被っていない。


サークルは混声合唱団に入った。一番金のかからないのはコーラスかな思ったから。一年間は真面目に活動し、暮れの定期演奏会では、ピアノ伴奏ながらベートーベンの第九合唱付きを暗譜で披露した。その後も第九を歌う機会が何度もあり、市川市文化会館小林研一郎指揮ハンガリー交響楽団の「第九を歌う会」では、娘婿と共にステージで熱唱した、いい思い出がある。しかし、二年生になって進学振り分けが気になって、コーラスは辞めてしまった。その甲斐があってか、進学振り分けの成績は、3000人中1000番前半だった。これならどこにでも進学できると考えたが、まずは工業化学、航空、などと考えていたときに、合唱団仲間が、これからは原子力だと言うのを聞いて、それも夢があるなとも思った。当時原子力工学科はできたばかりで、就職先も限られていた。牛に引かれてのような選択ではあったが、今考えると一番自分に合っていたように思う。あらゆる分野を学習するので、大変おもしろい。工学部で医学系の講座があるのも珍しい。


相変わらず物理はダメで、量子力学や相対論になると歯が立たない。もともと理論派ではなく実験派なので、大学院は化学系を考えていた。各講座からは勧誘があって、結局、原子炉材料学を選んだ。教授は向坊隆先生、助教授が菅野昌義先生だった。原子炉材料学と言っても対象は核燃料で、ウランやトリウムの研究をしていた。研究室では一年先輩の下請けから始まる。決まったテーマは、「トリウム化合物の製造と物性」。なぜ、トリウムだったかと言うと、まだ、核燃料の本命が決まってなくて、あらゆるウラン化合物に手を染めていた中で、ウランがダメでもトリウムがあるという考えで、トリウムも対象になっていた。トリウムは核燃料ではなくて、核原料物質。トリウムが中性子を吸収してウランに代わり、そのウランが核燃料となる仕組み。黒鉛炉でも可能なので実現性は高いと思われていた。トリウムの埋蔵量はウラン以上に多いことも魅力だった。向坊先生の思い入れもあったと思う。


原子力工学科の定員は30数名。ワンクラスなので、密着度も高くて誰とでも親密になれるという、自分にとって気楽な環境だった。大学院になると、研究室での生活が中心となる。各学年二人ずつなので、博士課程まで入れても院生はたかだか12名だが、実際は半分の6名だった。しかし、卒論生や他大学からの卒論生もいて、毎年結構賑やかだった。野球の1チームは作れたので、よく草野球をやった。皆下手なので気後れすることもない。研究室同士の定期戦まであって、野球の後は飲み会で盛り上がった。


野球だけではない。夏は湿度が高くて実験ができない。夏は実験装置を作ったり、プールに泳ぎに行ったり、夜な夜な酒盛りをしたりの野放図な研究室だった。自分にとって初めての濃密な世界だったと思う。それでも、博士課程に進学し、学位を取ることができた。先生方や仲間に感謝したい。研究室仲間との付き合いは、今だに続いている。


就職では菅野先生のお世話になった。まだ、就職先が限られている状況で、当時は、原子力研究所、動力炉や核燃料開発の公団、核燃料会社、大手のメーカーくらいしかなかった。原子力工学科は新しい学科なので、諸先輩がいる中で大学に残るという選択肢はなかった。菅野先生に東芝を勧められて、総合研究所の中にあった原子力研究所の所長面接を受けた。実は東芝とはその前に、工場実習と称する必修の単位で、夏休みに東芝の核燃料施設でインターンを行っていて、なじみもあった。東芝を選んだのには他にも理由があって、前年に結婚していて、遠くには行けない事情も影響した。


所長面接は形式なので、来るかと言われたときに即座に受諾すべきだったが、何を思ったか、家内と相談して決めますと答えてしまった。何となく、一存ではと思ったのだろう。翌日、すぐに受諾の電話を入れて就職は決まったが、後々、研究所では「家内と相談して」が笑い話になったと聞いた。よほど珍しかったのだろう。研究所は川崎市の浮島地区にあって、通勤には片道1時間15分くらい掛かったが、当時は、駅から15分程度のところに住んでいたので、それほど大変ではなかったが、子供の成長に連れて家が駅から遠くなってしまったので、通勤時間は長くなる一方だった。


会社時代


研究テーマについてはとくにこだわりはなかったので、何でも引き受けた。配属先は加速器応用技術開発と金属材料のナトリウム腐食が二大テーマだった。前者も後者も徹夜の実験がある。新人は労組に入っていないので、徹夜要員にはよく駆り出された。主に取り組んだのは、加速器から材料中に注入されたイオン飛跡のモンテカルロ計算で、まだ、能力の低い中型コンピューターで毎日のように計算を繰り返した。計算機科学の黎明期だったが、計算機の能力が伴わなくて大した成果は挙げられなかった。


実は、東芝では博士には社宅を提供することになっていたが、当時は川崎公害の真っただ中で、何カ所も案内されたが環境が悪いのですべて断ってしまった。古い社宅で間取りが狭く、トイレや風呂も貧弱だったせいもある。結局、遠距離通勤を甘受することになった。入社時には五人いた博士も、次々と大学に戻るなどして東芝に残ったのは二人だけだった。まあ、企業の研究所では博士の使い道というのも難しかったのだろう。なのになぜ残ったかと聞かれると、答えに詰まるが、とくにやりたいテーマがなかったということだと思う。どのテーマでもそれなりに興味が持て、成果も出せたと思っている。生来、ダボハゼなだろうが、要するに器用貧乏。


係長クラスになった年に、動力炉・核燃料開発事業団に出向を命じられた。勤務先は虎ノ門の本社で、燃料材料のプロジクトを担当した。これも良い経験になった。担当したプロジクトは、もんじゅ燃料集合体開発と常陽第二炉心の照射装置開発。前者の関係先は東海事業所、後者は大洗工学センターで、毎週のように東海や大洗に出張した。一日のうちに両方行くこともあった。なぜか、大洗雨男でいくたびに雨に祟られた。一度などは、大洗では雨にあったが、その後東海に移動すると晴れたりして、大洗には嫌われているのかなとも思ったりした。ただ、地理的に大洗では雨でも水戸では降っていないことも多く、海岸特有の気象なのかも知れない。プロジェクトリーダーの特典で、燃料集合体の流動解析など専門外の論文にも何報か名前を連ねている。三年で出向解除になったが、この間の蓄財で家が買えるようになったのは役得だった。


研究所には戻ったが、係長クラスから課長クラスに昇進して、管理職が仕事になった。研究所業務から離れたうえに、組織も変わって居場所がない思いをしていた最中、本社技術企画部に二年間の転籍を命じられた。業務は技術者教育で、係長クラスから幹部クラスまで対象なる。トレーニングセンターが仕事場になって、教材や会場の準備から講師役まで勤めることになった。人前で話すのは苦手というか、気後れがするタイプだったが、否応なしに矯正されたように思う。やはり、必要なのは十分な準備であるが、原稿を作って話すのはまったく不向きで、原稿通りに話したことはない。学校の先生にならなかったのも、同じ話しを二度、三度と繰り返すことができなかったという理由による。一回で気に入る原稿などなく、常にもっとよくしたいという意識が強いのだと思う。研修の後は必ず懇親会で盛り上がり、我々スタッフは打ち上げ後も、残飯整理と称して飲みつづけたのも楽しい思い出となっている。


研究所には戻ったが、所長補佐が仕事になって、その後は総務部長職を一年間経験した。防災訓練の指揮を取るなど、めったにない体験ができたが、やはり馴染まないポジションだった。結局、一年で首になり研究業務に戻ったが、本流ではないのでテーマが見つからない。その中で、当時、謎とされた現象があって、その解明を命じられた。軽水炉のチャンネルの影という現象だったが、簡単そうなのに簡単には説明ができず、機構の究明が求められていた。あるとき閃いて、炉内での照射環境が酸化皮膜に電位差を惹起しているのではないかとの仮説を立てた。得意な計算シミュレーションでうまく説明できたので、学会誌に投稿し、査読にもパスして掲載の運びとなった。査読者も理解できたかどうか疑わしいが、結局、3報を出して一時は学会賞の候補にもノミネートされたが、実用性が低いとして受賞には至らなかった。これらが最後の投稿論文だった。


役職定年間近に、原子力広報担当部長を命じられ、研究とは縁がなくなった。人と付き合いたくないから選んだ研究者の道だったのに、180度の転向を余儀なくされたが、本社での経験などを経て、気後れはしなかった。原子力広報とは、メーカーとしての立場から、電力や他の同業者とともに原子力発電を推進する活動で、主に工場や研究所の見学や発電所の見学を行っていたほか、パンフレットやノベルティを作ったり、見学用の展示模型を作ったり、社内向けのセミナーを企画したりするのが、主な業務だった。そのほかに、業界団体や電力業界あるいは各地にある原子力懇談会との付き合いもあった。人事権はなかったが、予算は確保されていて、かなり好き勝手にやらせてもらった。実は、OB会社も兼務することになったので、OBとも付き合ってカラオケに行ったり飲み歩いたり、あるいは研修旅行に参加したりして、行動の幅がかなり拡大した印象がある。


役職定年になって、OB会社の社員の身分でありながら、東芝原子力広報担当部長を兼務した。OB会社の仕事は営業で、電力を中心に、展示模型やPRビデオの制作を売り込んだが、入札ではほとんど負け、取れたのはごくわずかだった。それでも、PRビデオの制作や、模型製作を受注して、儲かったかどうかは疑わしいが、社業にはそこそこ貢献した。ビデオや模型は外注なので、スタッフに依るところがきわめて大きい。つくづく最高の仲間に助けられて、気に入った仕事ができたと自負している。


これらの仕事がその後の再就職に繋がったのだから、何が幸いなのか分からない。経験の連鎖が結果を招くということと思う。何にでも前向きにチャレンジすることの大切さを強調したい。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)