未来を担う世代に

宇宙と死生観


我々は地球という環境の中にいる。もっと広げれば宇宙という環境の中にいる。我々は地球から生まれ、地球によって育った。我々の身体は原子でできている。その原子はどこから来たかというと、まぎれもなく地球から来たものだ。つまり、我々は地球の子なのだ。地球はどこから来たかと言えば、遠い昔に宇宙で輝いていた星が死んで、宇宙に散らばった塵が集まってできている。星の誕生と死は、幾度となく繰り返されて、今に至っている。


宇宙の始まりはビッグバンだった。何もない空間から突然、エネルギーが湧き出た。最初にあったのは、光(光子)だけ。言い換えれば、高エネルギーの放射線だけの宇宙だった。宇宙の膨張とともに温度が下がり、素粒子ができ、軽い原子ができ、星が誕生した。輝く星の中では、水素を燃料とする核融合反応が起こってヘリウムができ、水素が燃え尽きるとヘリウムが燃え出し、それを繰り返して最後は鉄に至る。もはや、星の重さを支えるだけの内部のエネルギー源が無くなると、星は死ぬ。星の最後はいろいろなタイプがあるが、もっとも派手なのが超新星爆発超新星爆発の中で、鉄よりも重い元素が作られ、塵となって宇宙にばらまかれる。その塵が集まって、また星が誕生する。宇宙でも、死と生が絶え間なく繰り返されている。輪廻という言葉があるが、宇宙の深淵もそこにある。


我々もまた、地球から生まれ、地球に帰る。人間だけでなくあらゆる地球上の生き物も同じ。これも輪廻。たとえ話をしよう。我々の身体は無数の細胞でできているが、共通の要素は水である。地球上の水は有限で、地球を循環している。我々もまた、水を摂取しては排泄している。ほぼ同じ量の水を身体は維持しているが、その水は常時入れ替わっている。分子レベルで考えれば、誰かが摂取した水の分子は、誰かが排泄した水の分子である。誰かは人間とも限らない。動物や植物、あるいは鉱物の可能性もある。水は体を通り抜けるのではなく、身体を構成した後に排泄される。ということは、誰かの身体のかつての一部が、我々の今の身体の一部になっているとも言える。そう考えれば、過去の偉人とも、ご先祖様とも、近所の隣人とも、あるいは世界中の人々とも、水を介してつながっていると言える。地球の水は、宇宙から来たらしい。宇宙とのつながり考えると、壮大な気分になる。


人類は、これまで科学技術で発展してきたと言われるが、科学技術に止まらず、あらゆる知識や文化、制度の蓄積で今日に至っている。その原動力は、人類の知恵と言うべきだろう。解決すべき課題を見つけ、普段の努力でそれらを克服してきた。障害があれば乗り越えたいという意欲が、それを支えてきた。意欲とは欲に他ならない。制御系では、行き過ぎを修正するフィードバックという機能が備わっているのが普通だ。しかし、人間にはフィードフォワードという厄介な機能がある。いわば欲の源だ。興奮して自分では制止できなくなるのが、それだ。ときには役に立つが、ときには問題を起こす。このフィードフォワードが人類の発展に寄与してきた。人類は飢えからの解放と、生活の豊かさを求めて発展してきた。大多数が農業従事者だった時代から、都市を中心に工業へ、商業へと分化を遂げてきた。食から生活へと目標が変化してきた。


昭和世代は、戦後の食糧難を克服し、モノづくり文化を推進してモノを使用することで生活を豊かにする方向に邁進してきた。衣食住が満たされてくると、余暇の利用や労働の軽減が新たな目標に加わり、娯楽産業やサービス業が隆盛を極めるに至っている。人間の欲は止めなく、十分豊かになった生活にも飽き足らなくなっている。モノも食も満ち足りた時代は、これからどこに向かうのだろう。格差社会とも言われる今日、持てる者が娯楽に明け暮れたあげくに滅亡した、かつてのギリシャの再現すら頭によぎる。皆が共通の夢を持ち、皆でその夢を実現していった時代は終わった。昭和世代は、終戦を機として、皆が同じスタートラインからスタートし、同じように豊かな中産階級になった世代と言える。高度成長後の停滞の時期を境にして、徐々に格差が広がった結果が今日の格差社会なのだろう。


世の中には解決すべき様々な課題を生じている。地球温暖化や先進国と発展途上国との関係もそう。これだけ課題が多ければ、やるべきことはいくらでもある。課題を解決するのが人類に備わった能力だとすれば、解決できないことはない。


これからの世代へ


生きて何をするか。子どもは、保育園や幼稚園、小学校、中学校、高等学校と学ぶことから始める。学びは、将来、何をするにも絶対に必要なプロセスだ。何故なら、人類がこれまでに獲得してきた膨大な知恵を授かることができる。自分で考えることができるようになるまでは、どうしても模倣が必要だ。「守破離」という言葉もある。自分で考えることの重要さは言うまでもないが、それは簡単にはできない。赤ん坊は大人を真似て育つ。学校はまさにその延長にある。人類の知恵も膨大になり、それもますます増えていくが、要らなくなった知恵もある。片方では捨てながら、片方では拾っていく、それが営々と続く。ゴールをどこに置くかによって、どの段階まで上がればよいかが決まる。


どの段階まで上がろうとするかは、個々人が自分で決めるものだ。必ずしも能力で決まるものでもない。そもそも、個人の能力など、簡単に判るものではない。だから、未熟な段階、早い段階で自分の能力を見限ってしまうのは避けたい。何かの能力が足りないと思ったら、足せばよいのだから。それは簡単ではないかもしれないが、不可能ではない。そこに必要なのは、やはり意思の力だろう。最初から諦めてはいけない。継続は力なりという。続ける気力と努力が必要だ。


異業種交流のセミナーで、講師に「気力を養うにはどうしたらよいか」と尋ねたら、その答えは、「歩くことです」だった。遠くまで歩くには、気力が必要だ。あながち、間違った答えではない。山登りに例えてみよう。ゴールは山の頂上。途中にはつらい山登りがある。起伏があるかもしれない。転落するかもしれない。風雨に襲われるかもしれない。しかし、ひたすら歩を進めれば、いつかは必ず頂上に立てる。努力を惜しまないこと。決してあきらめないこと。それが肝要だ。同じ仲間がいれば心強いかもしれない。が、頼りすぎてもいけない。仲間はときとしてライバルにもなりうる。基本は、やはり自分自身。自分一人でもできれば、これほど心強いものはない。自分を信じること。


別の側面から見てみよう。学校教育の目的は、一人前の大人を作ることに尽きる。自分で考えて判断できること、それが目標だ。ただ、実現は難しい。主観とは、一本やりだ。主観を押さえ、客観的に、俯瞰的に、広く、ときには精緻に見る態度が必要だ。と同時に、先を読むのも忘れてはいけない。短絡的にものごとを決めてはいけない。とくに昨今、刹那的、直感的、短絡的な反応が世の中には多いように思う。ソーシャルメディアがそれを助長しているような気もする。昔は手紙、少し前はメール、今はSNS。考える時間も、伝える内容もどんどん短くなってきている。それが心配だ。使うのには便利だが、それに振り回されないようしたい。


できるだけ早くゴールのイメージを持つようにしたい。少なくとも、中学生の間に、将来の目標を決めておきたい。漠然とでもいい。そうすれば、その目標達成のために何が必要か、今、何が欠けているかに気付くことができる。目標も定めずに漫然と過ごすのは怠惰だ。先に行ってからでも修正はできるが、先に行くほど修正に手間も時間もかかる。多様化の時代、無限の選択肢がある。解決すべき課題も多い。いくらでもやりたいことはあるはずだ。誰もやっていないことに手を出すのもいいだろう。自分で考え抜いて、判断すればいい。ただ、世のため、人のために役に立つという視点を忘れないでほしい。皆、地球の子なのだから。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)