情報館の回想と裏話など

未来科学技術情報館との縁


すでに閉館した科学館なので、もう時効だろう。在籍したのは、2005年4月から2007年12月まで。閉館で終わった。12月は中途半端だが、開館が1995年12月だったので、ちょうど12年間続いたことになる。在籍は、たった、2年9か月だったが、楽しい思いをさせてもらった。ある意味で、その後にもつながった、一種のキャリア形成だった。


身分は技術相談員。それまでも代々続いたポストで、ある会社が退職者の再就職先として継続的に送り込んでいたが、特別の事情があって入ることができた。実際の再就職先は科学館の運営を科学技術庁から委託されていた財団で、月20時間の契約社員として雇用された。その当時の財団理事長は、大学で教わった教授だった。これも何かの縁かもしれない。財団とは長い付き合いがあり、情報館とも仕事で付き合いがあって、前から再就職先として名乗りを上げていたのが配慮されたのかもしれない。


ちなみに、未来科学技術情報館科学技術庁の委託事業として始まり、当初は未来館と称していた。アドレスも、miraikan.gr.jp だった。その後、2001年に、お台場に日本科学未来館が開館したことで、当館は情報館と略称を変えたが、アドレスはそのまま残り、二代目未来館の方のアドレスは、miraikan.jst.go.jp となっている。文部科学省となって、2館運用の理由がなくなったことと、事業継続10年を経過したことから予算が打ち切られ、閉館となった。


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情報館という呼称は、国における首都圏に向けた情報発信の場としての位置づけがあったからで、実際、書棚の半分は、原子力発電所の許認可資料が占めており、それを目当てに通う人も珍しくはなかった。科学館の体裁をとったのはやはり集客が目的だろう。新宿駅から歩いて5分という立地も集客には好都合だった。図書室には椅子や机があって、休憩にも利用されていた。親子連れや、学校帰りの小学生、暇つぶしに寄る会社員などは近場の人たちだろうが、遠くからは、九州から北海道までの修学旅行生が班活動で訪れた。狙いは別にあったのかも知れないが、新宿に寄るには好都合だったのだろう。元より、狭い館なので、バスで来るような場所ではないが、少人数のグループの訪問はしばしばあった。その中には、障碍者のグループや特別支援学級の生徒たちが含まれる。幼稚園もあったように記憶している。


図書室には、来館者向けの図鑑やら、実験・工作の本やら、料理の本まであって、夏休みなどは宿題のテーマ探しに親子で賑わっていた。理科や科学の一般書もあって、大人でも訪れる人は多かった。小中学生にはちょうど良いレベルの本が揃っていて、その後にあちこちの科学館の図書室を覗いてみたが、蔵書の数はともかく、これだけ対象を絞った図書を持っていたのは、情報館だけだった。この図書は、閉館後は一括してある科学館に移されたと聞いている。下の図の正面奥が図書室で、図書室は日曜日にはイベントスペースになった。


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情報館も体験型の科学館で、大型の展示物はどこの科学館にもあるようなものが多かったが、とりわけ人気があったのは、人が入れる大型のシャボン玉を作る装置で、同型の装置ではとくに大きかったらしく、有名だったらしい。そのほかにも、100mの伝送路を持つボイスターンや、体を押し付けて人型を作るピンレリーフ、たつまき発生装置などがあった。科学館らしく、真空実験装置や、真空落下装置、ヴァン・デ・グラフ起電機、トムソンリングなどもあった。放射線分野では、大型霧箱、小型X線透視装置、βちゃん、プラズマボールなど、原子力関連では、原子力発電シミュレーションゲームなどがあった。大型の展示物も入れ替わりがあるので、年によって違うものを体験された方も多いと思う。


技術相談員の仕事は


主に、毎日曜日の午後に開催される実験教室・工作教室の企画と準備と当日の講師役。これは館員が順番で担当した。実験教室・工作教室は参加無料で、製作した工作は持って帰れた。次は、15分ほどのちょこっとサイエンスという、一種のサイエンスショーで、これも、企画と準備と講師役。一回15分だが、一日に二回あった。これはなかなか難しくて、とくに子供は面白くないと容赦なく離れて行ってしまう。つなぎとめるにはどうしたらよいかを真剣に考えざるを得なかった。目の前で通信簿をもらっているような気分。結局、できるだけ参加してもらうこと、つまり話しかけて答えてもらったり、手伝ってもらったりすることを心がけること。一つの話題は3分以内にすること。話し中心ではなく、見たり動いたりすることを多く取り入れること。などを心掛けた。


実験教室・工作教室もありきたりのテーマでは飽きられてしまう。何しろ無料なので、応募が凄まじい。抽選になるが、何度も落選する親子がいた。他方、リピーターも多いく、レベルも高い子がいる。予算の都合で軽いテーマが多いが、人気の出そうな凝ったテーマを提案して実行させてもらうことが多かった。ヒットテーマの一つが、電動ヘリコプター。電気で動く工作を中心に提案したが、電動飛行機なら作るのは楽だが、館内が狭いので飛ばす場所がない。そこで、何とかヘリコプターをと思ったが、道のりは険しかった。当然、試作、試験して、子供、といっても中学生か親子同伴の小学生が参加資格だったので、小学生でも作れないといけない。作ったけど飛ばないでも困る。結局、開発に3か月もかかった。この電動ヘリコプターは2回実施していて、2回目の方が成功率は高かった。今なら小型の電動ヘリコプターがおもちゃとして売っているが、まだ、当時は超小型モーターが高価で、模型モーターを使わざるをえなかった。重くなるのが当然で、電池駆動にすれば確実だが、軽くするためと、発送電分野では蓄電の重要性を語るために電気二重層キャパシターを使用した。別途、電池で充電する必要はあるが、何しろ電池より軽い。また、適当な時間で電圧が下がり、ヘリコプターが飛び続けないのも好都合だった。

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電動ヘリコプターは、ココログの「科学館員の独り言」に掲載したので、今でも残っていて、たまに作ってみたいので資料をくださいという依頼が舞い込む。入手しやすい部品で構成しているので、それが魅力かもしれない。先日も問い合わせがあり、資料を送ったところ、うまく行きましたというお父さんからのメールがあった。


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大型の展示物は順番待ちの状況なので、分散を目的として小型の展示物を多く用意していた。市販品もあるが手作りも多い。人気があったのは、ハノイの塔と空中コマ。これは適当に難しく、子供よりは大人が夢中になっていた。空中コマはなかなか回せなかったが、コツをつかむと成功率が上がった。ただし、指導するのはもっと難しく、体感のようなものを人に伝えるのは難しいと感じた。展示物の自作も手掛けたが、これは仕事というより趣味に近かった。作品には、周期表ダーツがある。これは、磁石のダーツだが、外側から、水素、ヘリウム、リチウム、などとなって、中心がウランになっている。ウランに当たると、周囲に2個または3個のLEDが仕込んであって、それが光ることになっていた。これは何かを理解した人は少ないかもしれないが、実はウランの核分裂をテーマにした手作り展示物だった。LEDはもちろん、発生した中性子の数に合わせてあって、2個または3個がランダムに選択されるようになっていた。多くの人はただのダーツと思っていたかもしれないが、核分裂の説明の切っ掛けにはなった。


最初は、説明要員からは外れていたが、予算の縮小でスタッフが減ると、輪番で説明要員となった。PR館ではないので、押しつけがましい説明はしないが、それとなく寄って行っては解説を加えると、会話が弾んだ。科学館なので、それなりの科学知識は必要になる。幸い、原子力工学科を卒業しているので幅広い知識は得ていた。どこで、何をするかが分からないうえで、持っていた知識は大いに役に立った。ときどき、挑戦的な難問をふっかけてくる人が来館する。あるいは、訳の分からないことを言い出す人もいる。なかなか、対応は難しいが、ほどほどの対応でお帰り願った。一種の客商売なので、怒らせるわけにもいかない。いい勉強になった。


今となっては、どれもいい思い出になっている。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)